前回の記事では、リスクをめぐる制度的専門知の問題点を指摘するなかで、制度的判断に再帰性を担保するためには、ローカル・ノレッジ(民衆知)を組み込み普遍/特殊の二分法を乗り越えることが重要であることを論じた。
ただし、明らかに非科学的なバイアスにさらされ、リスクを過大に評価する「素人の知」を組み込むことがあってはならない。それでは再帰性が働かず、社会が成り立たない。専門家の権威は適切に尊重されなければならない。制度的専門知にバイアスが存在しうることを言っておきながら、素人の知もまたバイアスが存在し、当てにならないことを指摘しないのは、ウィンらの社会学のナイーブな点である(というより、そうしたバイアスを積極的に擁護する論者もいるのだが……)。
リスク・ガバナンスを考えるには、人びとの認識や思考をインプリシットなレベルで枠付ける「文化」をその射程に入れなければならない。リスクをめぐる言説は、個々人の合理的選択によるもののみではない。社会構築主義的なリスク論の嚆矢をなした英国の人類学者メアリー・ダグラスは、リスク・ガバナンスにおけるコンフリクトが「文化」のコンフリクトであることを論じた。
ダグラスは、単に素人の無知蒙昧を嘲るのではない。なぜ一般の人びとは、どのようなリスクに満ちているのか、どの程度のリスクに満ちているのか、どのようにリスクに対応すればよいのか、といったことに対する専門家の知見に同意することができないのか。そして、なぜ、不確実性を認められなかったり、不確実性を過大評価してしまうのかを探究するのである。
目次
非難(責任押しつけ)のメカニズムとしての「タブー」と「リスク」
そもそも、メアリ・ダグラスは、一般には、1966年の『汚穢と禁忌』(Purity and Danger)のなかで、「穢れ(pollution)とは、社会の秩序法則を乱すものに無根拠に貼られるレッテル」にすぎないことを初めて論じたことで知られる。ただし、この当時はまだこの「穢れ」の観念と「環境汚染」(pollution)への懸念との関連を見出してはいなかった。しかし、1970年以降、自身の象徴人類学的知見をリスク論に広げている。
「産業化以前の西洋では、キリスト教が罪の語を用いていた。・・・・・・大きな罪は共同体に危険をもたらす、あるいは罪人の身近な人を苦しめるとされていた」(Douglas 1990: 25)。しかし、現代社会の人びとは、もはや罪の教義によって責任を負わされるようなことはない。代わりに「リスク」の概念が、現代の言説に適した科学的雰囲気をまとう一方で、非難(責任押し付け)のメカニズムとして機能しているという。
産業界や行政の専門家がなぜ新たなテクノロジーの安全性を市民一般に納得させることができないのかを理解する必要性が高まっている。しかし、実のところ人間の一般的傾向はその正反対であり、人間は生まれつき臆病なのではなく、むしろ恐れを知らず、危険が実際にあることを教え込むことは困難なのである。ところが、その危険が権力的なマイノリティによって無力なマジョリティに負わされているとされる場合になると、「危険とは無縁だ」という主観的な感覚は起こらない。この違いが起きるのは、他者に負わされたリスクに対する態度が政治的であるからだ。……リスク認知が問題なのではなく、欺瞞や搾取に対する憤慨が問題なのである。そうであるならば、私たちはなぜ非難の態度をとるのかを理解する必要がある。(Douglas 1985: 33-4)
リスクの認識と受容は、危険の原因が誰にあると誰によって認識されているのかという問題と切り離すことができない。かくして、ダグラスは人類学者として、村に不幸が起きた際にウィッチクラフトにその原因を帰す未開人とのアナロジーを見い出すのである。
ダグラスによれば、ある文化のなかでは、決まった非難のパタンが見られるという。このパタンが、災難への恐れを通じて、集団に対する個人の意識を枠付けるメカニズムとして機能する。ここで、三つの非難のパタンが区分される。犠牲者への非難(未婚の母、病人など)、近親者への非難(障害児の親、不良少年の母親など)、外部の敵や力への非難(先祖、自然など)の三つである。
問題はどのような危険が最も不安を呼ぶのかではなく、不運に対してどのような説明が、さまざまな種類の社会において最も効果的に機能するのかにある……さかんに喧伝されたリスクは一般に道徳原理を正統化することにつながることがわかっている。(ibid.: 60)
そして、現代日本では、それが不当であるケースでも、医療の世界では医療者がウィッチクラフトとなり、教育の世界では教師がウィッチクラフトとなっている。なぜなのだろうか。
リスク認知を歪ませる文化の3類型
ダグラスは、リスク認知を歪ませる種々の文化的バイアスを明らかにするために、かなり理念化した類型論を展開している。ダグラスによれば、以下にみる類型のうち、平等主義的なエンクレイブが、現代社会の歪んだリスク認知をもたらす最たるものである。ひとつずつ、具体的に見てみよう。
第一は、閉鎖的、ヒエラルキー的、伝統志向の社会であり、ここでは個人の欲求が共通善よりも下位にあることが教え込まれる。「道徳に厳しく人びとを手なずけるコスモロジー」(Douglas 1985: 62)のなかで、罪の重みに耐え切れなくならないように、贖いの儀礼が用意されている。そして、「ヒエラルキーはその厳格な手続きにいたずらにこだわる。その結果、あまりに物事に遅速であり、新たなテクノロジーに対してあまりに盲目的になってしまう。新たな危険の存在を信じることができない。大きなリスクがその制度閾を超えた地平に現れてはじめて認識されることになる」(Douglas and Wildavsky 1982: 101)。
第二は、個人の競争を重視する社会である。「個人主義は交換システムを第一の価値としてかたく信じている。このシステムを脅かす個人はいかなるものであれ罰せられる」(ibid.: 101)。さらに、個人主義は自らの競争の犠牲者に注意を払うことはほとんどない。したがって「この社会に危険なテクノロジーを委ねることはできない」(ibid.: 101)。
さらに、ダグラスは第三の文化形態として平等主義的エンクレイブ(ボランタリー・アソシエーション)を提示し、官僚制(ヒエラルキー)や市場(個人競争)とは異なる独特なものとして位置づける。
言葉の上でのコミュニティとは、個々人の生活の支えとなり、コミットメントを境界付ける集団のことである。ボランタリー・アソシエーションはコミュニティ形成の萌芽的、不完全、未完成の試みである。すなわち、ボランタリー・アソシエーションとは、その成員が、たいていの場合、年月を経て特に何かを成し遂げたというよりは、団結しているという点に誇りを持つことができるアソシエーションである。(Douglas 1985: 95)
この第三の文化型をダグラスはとくに問題視する。トクヴィルと異なり、ダグラスは、平等が権力の空白を埋めるためにもたらされたイデオロギーとみなす。「平等とは動揺した群衆の中であらゆるものがごたまぜにされることであり、評価、名誉、社会的地位なしに、人びとの目は小さな賞を求め、小さな不平等に憤る」(ibid.: 96)(こうした非難を読むと「何だこの偏った見方は」と冷笑したくなるが、ひとまず目をつむろう)。
ダグラスの分析は、以上の社会類型における公共財の配分の問題の考察に向かう。そこでは、オルソンの「共有地の悲劇」論が修正される。ダグラスによれば、公共財は特定の組織文化においてのみ生産することができるという。すなわち、ダグラスが市場やヒエラルキーと呼ぶレジームにおいて可能になるものである。なぜなら個々の成員はその公共財から利益を得ることができると期待できるからだ。
しかし、ボランタリー・アソシエーション(エンクレイブ)の場合、「フリー・ライダー問題」に対処しなければならない。平等主義レジームの場合、代価を支払わない者が集合的に生産された公共財から利益を得ることを妨げられないからだ。そこで、ボランタリー集団のメンバーは、供給を制限するために、インサイダーとアウトサイダーに厳格な境界を引くことになる。このために、ボランタリー集団は「非難の戦略」の背景に特定の「コスモロジカルな筋立て」を得る必要がある。つまり、外部の現実性の低いリスクを過度に強調することで、その厳密な境界を維持することになる。境界によって組織の凝集性を保つために必要となるのは、外的な脅威によって引き起こされる不可逆的な変化に対する恐怖なのである。
こうしたエンクレイブは集権的というよりは周縁的な組織形態(セクト)である。「セクトには中心を支えるのに十分な責任も安定性もない」(Douglas and Wildavsky 1982: 120)。セクト主義的政策は、中心/中央に対する非難と結びつく。あらゆる権力者と社会的階層の上位者が引きずり下ろされる。
〔メアリ・ダグラスが〕主張しているのは、環境・生態系破壊をめぐる今日の熱い議論が、現代のアメリカにおける教会-セクト間のコンフリクトの基本形態を織りなしていることである。近代世界において、科学は説明と恐怖の源泉として神に取って代わった。科学技術は悪魔であると疑いもなく認められ、自然は清浄そのものの象徴となって、汚染から守られる。ちょうど、神がセクト主義者によって腐敗と俗物から守られてきたように。(Robbins 1983: 188)
以上の議論からリスクの類型が示される。ある社会集団の文化的性格はその集団の選択するリスクと類似性を持つ。リスク領域は以下の三つに区分される。
1.社会政治リスク:内部の逸脱(とくに人間の暴力)によって、あるいは犯罪、外部の軍事的敵対者によって引き起こされる社会構造の危険。←ヒエラルキー制度的文化
2.経済リスク:経済危機。経済的失敗のリスク。←市場個人主義文化
3.自然リスク:自然、身体の生態学的危機。テクノロジーによるリスク。←セクト的「辺境」文化
以上のうち、最初の二つのカテゴリーが「中心」を構成する。これに対して辺境文化は危険な「周縁」を構成する。ダグラスの議論では、この第三の文化は構造の脱組織化を導くものであるとされる。
しかしながら、今日では、第一、第二のリスク文化の成長も見られ、実際のリスク(不確実性)も増加している。グローバル市場化、国民国家の危機、個人化プロセスの進展のなかで、社会構造の危機と経済リスクが増大しているのである。
したがって、現代社会のリスクは、ダグラスらの言うように中心に対立する「エンクレイブ」や「辺境」の出現によって説明される「認知の歪み」には限られない。現代の社会秩序の脱組織化をもたらすエンクレイブのみを非難すれば良いとは言いがたい状況にあることを認める必要もある。
「リスク」を確率として認識できない
ある文明における一連の宗教観念が論理的に一貫しているようにみえるのは、矛盾の無い論理的規則を単純に適用しているためではない。宗教観念が論理的に一貫しているようにみえるのは、第一に、一貫した制度形態によっているためであり、第二に、一連のアナロジーがそれによって構成されているからである。こうしたアナロジーは、言葉を広げ、一つの文脈から別の文脈へと論理的な操作をすることで一貫性を創りだしているのである。そして、アナロジーが重なり合い、繰り返されて、混乱が起こりそうな経験に対して複雑な秩序化を課しているのである。(Douglas 1985: 426-7)
リスクは、罪やタブーと同様に、一つの文化的基調(カルチュラル・モチーフ)であり、多義的な意味が、複雑な社会のさまざまな制度的状況のなかで繰り返され、その状況のなかで起こる出来事の責任を配置する手段をもたらす。リスク観念が十分に打ち立てられているところでは、その観念が「わだち」(groove)として働き、社会的議論はそのわだちを流れ、そして、わだちを深くしていく。
しかし、リスクの文化基調はその意味を変えている。そもそも「リスクの語は得失の確率を示すニュートラルな語である」(Douglas 1990: 23)が、19世紀のリスク観念は利益と結びつき(人の嫌がるリスクを引き受けることで、企業家が利益を上げることが正統化された)、そして今日では、一般にコストと結び付けられている(つまり、リスクは被害に対する補償の支払いを正統化するものである)。
リスク概念は政治の前面に立っていてもおかしくなかったのである。なぜなら、確率論的思考は、〔17世紀以降、〕産業、現代科学、哲学に浸透しているからだ。・・・・・しかしながら、政策立案の中心概念であるリスクは、確率計算に関するインプリケーションは多くない。・・・・・・今ではリスクは危険を意味する。高いリスクとは、危険が大きいことを意味する。(Douglas 1985: 23-4)
現代医療の世界におけるリスク概念は純粋に確率計算によるものであるが、一般の人びとのあいだでは必ずしもそうではない。たとえば、0.5%の確率的事象が自分に降り注いだとき、「なぜほかならぬ自分なのか」についての説明が必要なのである。ここに大きな溝がある。
「上からの」リスクについて、ヒエラルキー文化のなかであれば全体の利益を考え納得でき(ただし、前回見たようにそこにはアンビバレントな心理が伏在する)、個人主義の文化であれば自己責任として納得することができる。しかし、平等主義的エンクレイブの文化に強く染まっている場合、文化基調(わだち)に基づき、平等性を否定する他者である科学や大企業、官僚組織に責任を押しつけることになるのである。
このように、(危険とほぼ同義で使われる)リスクはウィッチクラフトと同様の責任押し付けの装置としても機能しているのである。リスクは明らかに世俗的であり宗教的ではないけれども、アナロジカルに見れば、宗教的な観念がかつて果たしていた機能(キリスト教の文化基調としての罪、ポリネシア文化のタブー)と同じ機能を果たしているのである。
多元的なリスク文化を認め、再帰性を確保する
以上のような視点は、実践的にはどのような意味を持ちうるのであろうか。カール・デークによるリスク認識の分析をみてみよう(Dake 1991)。この分析では、サンフランシスコのベイエリアの市民に対してテクノロジーへの態度を聞いたものである。この調査の仮説は、リスクへの態度はパーソナリティに拠ったものであるというものである。つまり、
〔平等主義者は〕非平等的な社会は貧民を搾取するのと同じように傷つきやすい環境を痛めつけていると信じているだろう。ヒエラルキー主義者、個人主義者はちょうどこれとは反対である。すなわち、両者はテクノロジーに対して楽観的なのである。ヒエラルキー主義者はテクノロジーによる危機が専門家によって管理されうると考えており、個人主義者はテクノロジーを際限ない個人の冒険心の乗り物として捉えているからである。したがって、ヒエラルキー主義者と個人主義者は平等主義者よりも環境やテクノロジーの危機に関して不安は小さいと考えられる。(Dake 1991: 66)
調査の結果、平等主義者は36の「全体社会への関心」(societal concerns)の項目と正の相関が見られたが、「権威への尊重の喪失」はその例外であった。これは、平等主義者は他の文化よりも社会に対して批判的で、社会制度を維持することには関心がなく、リスクを嫌っていることを示すものである。ヒエラルキー主義者と個人主義者の技術上、環境上の危険に対する不安は平等主義者よりも小さい(「核戦争への恐れ」は相関関係が一番弱く、「テクノロジーと結びついた危険」、「環境汚染」については負の相関が見られた)。反対に、ヒエラルキー主義者と個人主義者は「デモや抗議」、「市民的不服従」、権威の欠如に対して不安を感じ、「市民的自由の欠如」に関する不安は小さい 。
「リスクの問題は文化的バイアスのリトマス試験である」(Douglas and Ney 1998:140)。ヒエラルキー的な傾向が強くなり、命令体系が強くなると、明白な危険までもが認知されなくなる(JCOの臨界事故ではウランを含む溶液をステンレスバケツで扱っていたことが問題となった)。
エンクレイブ文化のバイアスが強まると、リスクに関する議論は激しく果てしないものになる。人びとは臆病なように見え(実際は臆病なのではないが)、小さなリスクを過大評価する。リスク論争は政治論争なのである。
もちろん、良心の声が声高にそして明確になることは良い事であり、損害を招いたものが説明責任を有することは正しいに決まっている。相争いあう政治集団の間にバランスがとられること、そして妥協と和解のために話すこともまた正しい(ibid. 1998: 141)。しかし、リスクに対する文化論的理解は、現在の言説状況に対する大きな問題を投げかけるものである。ダグラスは悲観的な結論を見出すほかないのである。
私たちの文化は、文化的コンフリクトのリスクを最小限にするように、そしてこのコンフリクトを表に出すことを避けるように動いており、文化が本質的に対抗的であることが分からないように管理している。この無知の中で、私たちは意図せざる争いを引き起こそうとしているのである。すなわち、意図せざる侮蔑を行い、暴力を喚起し、報復の要求に耳を傾け、深刻な内乱への道を進む恐れの中にいるのである。(ibid.: 141)
問題は一つの文化的バイアスに偏ることなのであり、ダグラスが問題にしているのは、平等主義的な「エンクレイブ」にとくにその傾向が強いことであり、そして、現代社会が平等主義的エンクレイブの文化基調を刻み込んでいることである。
ダグラスらはベックのような理論家を広い意味でのセクト主義の役割を与えるだろう。ダグラスらはこれら三つのリスク文化はリスクの実在論的観念をもつという。その中でももっとも実在論的であるのが辺境からのセクト主義者なのである。ダグラスらにとって、ベックのようなコメンテーターは辺境からその立場を確保し、それをリアリズムに作り変えている存在なのである。(Lash 2000: 52)
結局のところ、ダグラスがセクトないし平等主義的エンクレイブを批判するのは、ヒエラルキー的な計算合理性が完全に正しいからではない。エンクレイブが自身の文化的バイアスや文化の多元性を否定し、再帰性を否定していることに由来しているのである。リスク・ガバナンスには、科学的リテラシーはもちろんのこと、多元的な文化的バイアスを調整する再帰性を担保することが必要なのだ。
追記
ジョセフ・ヒース『ルールに従う』(2013年、NTT出版)に対する山形浩生の書評のなかに、本エントリーと相同する内容があったのでメモをしておく。
「人の合理性は、他の動物と比べてもずばぬけて高い。これは進化だけでは説明できないし、いちいち何が合理的か判断するのも大変すぎる。一方、人間の行動もそんなに合理的ではない。……むしろ人は、無意識のうちにルールに従おうとする付和雷同性が特徴だ、と本書は述べる。そして人間は、文化という形で行動ルールを構築するにあたり、それにしたがえば合理性を貫徹できるようなものを構築しようとしてきた。そうしたルールとしての道徳を守ろうとする同調性があり、それに判断を任せられるからこそ、人間はおおむね合理的に行動できている!
そしてだからこそ、道徳は単純なルールをいくつか理解すれば自然に導出できるようなものにはなっていない。道徳が必要とされる場面は毎回ちがうのに、人は新しい場面でもある程度一貫性を持った道徳的行動ができる。それは道徳、ひいては文化というのが言語と同じで、複雑な構造を持って習得される必要がある一方で、毎回新しいルールを生み出せるようになっているからなのだ、と本書は主張する。哲学や進化生物学、経済学や脳科学まで動員して、一般的な発想に真っ向から挑戦する議論を繊細に積み上げる様子は実に刺戟的だ。」
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20130326/1364268478
今回の書籍
定価:¥ 1,575 売上ランク:125546位 レビュー平均:5.0点 (1 人がレビュー投稿)
出版日:2009-03-10 出版社:筑摩書房 ページ数:438 | ||
by 通販最速検索 at 2013/03/24 |
参照文献
- Dake, Karl, 1991, ‘Orienting Disposition in the Perception of Risk: An Analysis of Contemporary World Views and Cultural Biases’, Journal of Cross-Cultural Psychology 22(1): 60-81.
- Douglas, Mary and Aaron Wildavsky, 1982, Risk and Culture: An Essay on the Selection of Technical and Environmental Danger, Berkeley/London: University of California Press.
- Douglas, Mary, 1985, Risk Acceptability According to the Social Sciences, New York: Russell Sage Foundation.
- ―, 1990, ‘Risk as a forensic resource’, Daedalus, special issue on ‘Risk’, Fall, ll9(4): 1-16. [=Risk and Blame, ‘Risk and justice’]
- ―, 1992, Risk and Blame: Essays in Cultural Theory, London/New York: Routledge.
- ― and Steven Ney, 1998, Missing Persons, a Critique of Personhood in the Social Sciences, Berkeley: University of California Press.
- Lash, Scott, 2000, ‘Risk culture’, in Barbara Adam, Ulrich Beck and Joost Van Loon (eds), The Risk Society and Beyond. Critical Issues for Social Theory, London: Sage.
- Robbins, T., 1983, review of Risk and Culture, Journal for the Scientific Study of Religion 22: 188-9.