ローカル・ガバナンス(自己組織型ネットワークによる地域自治)の可能性について議論すると、「それはネオリベラリズムに回収されるだけではないか」と指摘されることがある。理念による批判はいくらでも可能である。その批判を踏まえた上で、英国のニュー・レイバーによる取り組みを参考に、(単なる「ローカリズム万歳!」ではない)ローカル・ガバナンスの条件を明らかにしたい。
ローカル・ガバナンスとは何か
英国では、70年代後半以降のサッチャー、メージャーの保守党政権によって、基礎的サービスの提供者としてのガバメントから「条件整備型国家」(enabling state)への転換が進められた。しかし、実際のところ、中央でも地方でも財政支出はほとんど減少せず、80年代から90年代にかけて保守党政権は中央主導による財政縮減を進めることになった。
これに対して、地方の左翼勢力は保守党政権へ対抗すべく、機会均等や職業訓練、権限分掌などの施策を行ったが、これも財政赤字を悪化させるばかりで十分な効果は上がらず、90年代後半以降、強制競争入札制の導入などによって、市民=顧客の想定の下に直接的なサービス供給への依存をやめ混合経済と共に生きる道が選ばれることになった。
しかし、その結果はといえば、監査コストが増大するとともに、歳費削減は地域住民への行政サービスの削減によってなされ、地域行政は停滞し、中央の官僚的管理システムは肥大化を続けるばかりとなった。しかし、この「政策の混乱」から生まれたのがローカル・ガバナンスである。
すなわち、カバメントを一元的に捉えることが困難になり、一つの政策決定において、中央・地方政府機関、民間企業、第三セクター、NPO、コミュニティなど多元的なアクターが関与し、そのネットワークと相互調整・信頼によって、その決定過程がなされる状況がもたらされたのである。
要するに、官僚制国家と市場という二分法では捉えることのできない中間領域が新たに立ち現れており、この「組織間のいくつもの自己組織ネットワーク」を通じて形成される政治過程が「ガバナンス」と呼ばれ、このガバナンスの複雑系を積極的に採り入れたのがニュー・レイバーによる住区協議会、LSPの設置を含めた一連の政策である。
「公共価値」の創出
ニュー・レイバーによれば、十分なサービス供給という点だけではもはや国家による介入を正当化することはできない。行政はガバナンスのシステムを通じて「付加価値」を提供しなければならない。この付加価値は「公共価値」と呼びかえられる。つまり、公共サービスの目的は公共価値を付加することにあり、公共価値が付加されないのであれば、そこに一切の正当性はない。
そして公共サービスは「無料の」資源、つまり同意、法の遵守、公共的な決定によってその価値が付加される。付加的な公共価値は、問題の解決に向けた協議を重ねることによる社会資本の蓄積によってもたらされるからだ。民主制社会の中で入手可能な付加的な資源を用いることにより、限られた財政の中でより多くの成果をあげることが可能となる。従来の公共サービスは公務員の存在が前提とされてきたが、それが必ずしも最適な費用効果を生み出すとは限らない。各セクター間のバランスのとれたガバナンスの民主的な選択こそが最大の効果を生み出すのである。
したがって、市場の効率性を公共セクターに移すという市場主義者の議論は、生産物と公共価値の違いを考慮に入れておらず間違っている。つまり、公共的なセクターがうまく機能するのは、その時々の問題に対処できる強さを民主的な過程が有しているときに限られているからである。
こうした理念の下にニュー・レイバーは、ガバナンスの領域における民主的プロセスを保障する装置として住区レベルでの協議の舞台、LSPを導入したのである。
ネオリベラルな地方主義?
ただし、冒頭で触れたように、ニュー・レイバーによるガバナンスのプロジェクトは多くの批判を浴びてもいる。その典型が、ニュー・レイバーによるガバナンスへの転換は、その理念に反してネオリベラリズムの罠に陥ったものであるとする批判である。
すなわち、ボブ・ジェソップらの知見に則りニュー・レイバーの政策をポスト・フォーディズム型生産様式による「都市空間のネオリベラル化」、「ネオリベラルな地方主義」と論断し、その帰結はニュー・レイバーのガバナンス論者が言うような「新たな地方主義」の理想などではなく、規制緩和による地域間、地域内競争の激化による過酷な現実であるとする。そして、ガバメントからガバナンスへの転換自体がネオリベラリズムの一要素だと見なすのである。
そこで、以上の対照的な議論を踏まえながら、ローカル・ガバナンスの可能性と限界を見定めるために、その要をなすLSPの取り組みの実際をみてみよう。
Local Strategy Partnership
LSP(local strategy partnership)とは、官・民・共のサービス供給セクターのローカルなネットワーク組織であり、セクター間の戦略的な協働と目標設定による地域改良を目的としている。その協議と意志決定は住区レベルでなされ、地域コミュニティも直接参加できるのが特徴であり、政府資金の補助対象団体として全国に広がっている(ウェールズではLocal Service Boards、スコットランドではCommunity Planning Partnerships)。
この試みは、80年代以降に分断化した各制度組織を地域レベルで包摂する「ローカルなメタ・ガバナンス」を目指すものであり、地域の幅広い声やニーズをローカル・ガバナンスに届かせる装置として位置付けられているが、他方で、その運営は中央政府の監査と管理の下におかれてもいる。
このLSPによる新たなガバナンス様式は、コミュニティも含めた各セクターによる代表制モデルによっており(かつてのコーポラティズムと類似した面もあるが、階級利害に基づく排他的な組織化とは位相が異なる)、利害関係が制度化された地方政党による代表民主制による旧秩序を揺さぶるものである。
ただし、このことを逆に説明責任の拡散や民主主義の弱体化と捉えることもできる。この点から協議会における地方議会議員の役割の拡大を求める声もある。ただし、それでも結果として、旧来の地方政治の透明性、説明責任の欠如はもはや擁護することが難しくなっていることは事実であり、LSPは従来の議会制民主主義を補完するものとして評価することもできる。
しかし、他方で、インフォーマルな連携によってビジネス志向の強力なアクターたちがLSPにおいて「コミュニティ」の利害を代表する傾向が強まっており、ネットワーク・ガバナンスの有する透明性や説明責任の限定性を指摘する声や、セクター間の協働よりは市場化や地域経済の破壊、つまりはネオリベラル化を進めるものだとする指摘も生まれている。事業の推進のためにコミュニティの名による包摂よりも官僚制化を優先させるケースもある。つまり「弱い紐帯」による協働ネットワーク化の限界であり、現実の強い紐帯に基づくフォーマルな組織体に打ち勝つことの困難さが認識されているのである。
ローカル・ガバナンスの文化多元性
以上みてきたように英国の住区レベルのガバナンスは、行政官僚による合理性の論理とコミュニティによる包摂の論理と市場による個人化の論理とを同時に抱えて進んでいる。ここで重要なことは、単一の論理に基づき協働によるサービス生産の是非を短絡的に問うことではない。
むしろ、問題なのは、市場なり官僚制なりコミュニティなり、一つの論理やアクターに回収されきることである(したがってネオリベラリズムと公共政策の融合は明確に否定されることになる)。一面的な論理はわかりやすく批判力があるが、しかし、その批判力の強さは、多分に文化的バイアスの強さに由来するものである(「なぜリスクは過小/過大に評価され、専門知が貶められるのか―メアリ・ダグラスのリスク文化論」を参照)。
逆に言えば、市場にせよ官僚制にせよコミュニティにせよ、そうした一つの論理やアクターを全否定することも誤りである。平時において進むべき道は中庸であるが、中庸とはあらゆるバイアスを否定して悦に入ることではなく、多様な制度文化の長短を見極め、経験的な地平において適切なバランスをとることである。
したがって、重要なことは、文化的バイアスの多元性を認めることであり、そうして数々の矛盾する声と討議し「協働」し続けることで準自律的な倫理=政治過程を創発させることである。ローカル・ガバナンスの意義もその点にこそ求められるものなのである。
今回の参考書籍
定価:¥ 4,723 売上ランク:64065位 出版日:1997-08 出版社:Open University Press 作者:R. A. W. Rhodes ページ数:252 | |
by 通販最速検索 at 2013/05/18 |