生態人類学者ティム・インゴルドは地域社会学でもよく知られています。とりわけ、インゴルドの場所論は、本質主義的(文化論的)な場所理解とどう付き合うべきかを考えるための手がかりとして、2000年代以降しばしば参照されてきました。
インゴルドと地域社会学
インゴルドが描き出してきたのは、「住まうこと」=「歩くこと」によって「タスクスケイプ」(生業の風景)としての場所が作られていくさまです(それに対して、地域社会学では、「歩くこと」を超えたモビリティによる「住まうこと」の多重性に注目する議論があります。先日の地域社会学会のシンポジウムも「モビリティ」がテーマでした)。
※私が大学院生の頃に分担出版したジョン・アーリの『社会を越える社会学』の邦訳書(監訳・吉原直樹)でも、インゴルドが取り上げているピーテル・ブリューゲルの「穀物の収穫」が表紙に採用されています。
本書『生きていること』でも、この論立てが『ラインズ』の議論と結びつけられて展開された論考が収められています。
住まうことは、文字どおり生の道すじに沿って漕ぎ出す動きである。知覚者=生産者は歩を進める散歩者であり、生産の様式とは拓かれてゆく工程であり、たどられる道筋である。……〔しかし〕住まうという概念は小ぢんまりと整った、区画された局所性のニュアンスを帯びていて、動きの原初性にそぐわない。……今となっては、もう少し軽い、生息(habitation)という概念の方が好ましい。私が言いたいのは、歩くことが、生き物が世界に生息する基本的な様式だということである。そして、あらゆる生き物はみずからの動きの線として、あるいはより現実的には、動きの線の束として想起されなければならない。
(『生きていること』p.48)
さらに、本書では以上のようなインゴルドの主張とアクターネットワーク理論(ANT)との異同を論じた論考が所収されています。本ブログではこの点について取り上げてみたいと思います。
書誌情報
ティム・インゴルド『生きていること―動く、知る、記述する』(柴田崇・野中哲士・佐古仁志・原島 大輔・青山慶・柳澤田実訳)左右社、2022年.
私の探究を人類学ではなく、
芸術や哲学、建築といったジャンルなのではないかという人もいる。
だが私は人類学者である。
なぜならあらゆる注意を払い、
動くこと、知ること、記すことを通じて世界に向かって生きながら、
生きていることそのものを探求するのが人類学者だから──。地面とはいかなる場か、
線を引くとはどういうことか、
板を挽くとき職人たちは何をしているのか、
大地・天空と応答すること、
散歩することと物語ること、
観察するとはどういうことか。さまざまな問いから、人類学や哲学が取り逃してきた〈生きること〉の姿をみつけ、
〈生を肯定する人類学〉の可能性と価値を擁護する。
インゴルドの豊穣なるアイデアのすべてを込めた「Being Alive」、いよいよ刊行!
※なお、初版に図版の誤植がありますが、出版社サイトで正しい図版が入手できます。訳文も大変読みやすく、本文理解に支障はありません。
インゴルドによるANT批判?
インゴルドの描く線(ライン=「動きの軌跡」、「流動線」、「生成変化の線」)は「点をつなぐのではなく、永遠に点と点のあいだや真ん中を通り過ぎていく」(p.162)ものであり、有機体はこれらの線の絡み合い(メッシュワーク)、ドゥルーズのいう「此性」として理解されています。
この考え方が、ブルーノ・ラトゥールの仕事と関連する、いわゆるアクターネットワーク理論にどのように取り入れられるかを考察することで、相互につながれる点の集合であるネットワークを、線が編み合わされたものであるメッシュワークから区別することの重要性へと立ち返ろう。
(『生きていること』p.163)
これを読む限り、アクターネットワーク理論は「相互につながれる点の集合であるネットワーク」を扱っているように見えますが、もちろんそうではありません。ちなみに、上記の「アクターネットワーク理論にどのように取り入れられるか」の原文は「has been taken up」となっているので、「どのように取り入れられてきたのか」と理解すれば、誤読は避けられるかもしれません。
しかし、インゴルドはさらにこう続けます。
〔道化師役を演じる〕アント(ANT)が主張するのは、出来事とは、クモの網(ウェブ)のように広範囲にわたり、行為する‐アリ(アクタント)のネットワークに分散しているエージェンシーの結果だということである。しかし、スパイダーが説明するように、その網は本当のところ、この意味でのネットワークではない。その網の線はつなげるためのものではない。むしろ、それに沿って知覚し行為するための線である。……行動はメッシュワークの線に沿って伝導される力の相互作用から現れる。
(『生きていること』p.164)
ネットワーク・メタファーは論理上、つながれた要素とそれらをつなぐ線とを区別することを含意している。構成が問題となっている要素を事前に分離することなしには、相互性もありえないのである。……これまでしてきたようにその関係を跡として描くことは、この反転を元に戻すということであり、ネットワークという考え方の鍵である物と物の関係との区別を退けることである。物とは物同士の関係のことである。
(『生きていること』p.173)
まず誤解を招きかねないのは、「アクタント」(アクタン)についてです。「行為する‐アリ」(act-ant)は悪いダジャレであり、「アクタン」は物語文法の単位にすぎません。ANTが眼を向けるのは、人びとがそれぞれに語る物語がいかにして秩序立ったものになっているのかであり、アクタンは物語を前に進める(物語に差異をもたらす)ために不可欠の要素(たとえば、竜を倒す物語には竜を倒す「主体」が不可欠です)を指す無内容の用語にすぎません。
なぜ、ANTは「アクタン」の語を用いるのか。それは、アクタンとアクターを区別するためです。アクタンは、さまざまなかたちで形象化され「アクター」として物語に登場します(竜を倒す「主体」が勇者であったり王であったり王国であったり剣であったり妖精であったりと、さまざまに形象化されます。しかし、いずれもアクターもそれ自体が行為の源泉にはなりえません)。あくまで、特定のアクターの形象にまどわされることなく、物語を成り立たせ世界(グッドマンと異なり「多重的な」世界)を成り立たせているさまざまな(非社会的な)アクターに眼を向けるための道具立てに過ぎません。
「いや、インゴルドはそんな厳密な話をしたいわけではだろう。『アクタン』はダジャレで使っただけで、『数々のアクターからなるネットワークに分散しているエージェンシー』のことが言いたいだけでは?」と思われるかもしれません。
しかし、すでに見たように、アクターとは、事後的に形象化されるものであり、数多のエージェンシー(ある行為をもたらす力)をインフォーマントがまとめた遂行的・暫定的なグルーピングの結果にすぎません。インフォーマントの報告において、アクターは「境界のはっきりしたノード」であるにしても、それは報告においてそうであるにすぎません。それぞれのアクターが可能的に有するエージェンシーが結びつくことで行為が生まれるのではありません。
そして、ネットワークとはこうした数多のエージェンシーの絡み合い(相互変容)を指しており、したがって、アクターとネットワークは等価のものなのです(勇者もまた、数多のエージェンシーの絡み合いによって勇者になっています)。よって、アクターネットワークは、「アクターのネットワーク」ではないということになります。
あくまでアクターネットワークは記述するための「手段」であり、記述される「対象」ではありません。つまり、記述されるアクターネットワークは閉じたものであったとしても、そのことは記述される対象が閉じていることを意味しません。
インゴルドのANT理解の適切さ
しかし、他方でインゴルドは、アクターネットワーク理論が「相互につながれる点の集合であるネットワーク」を扱うものでないことを正しく認識しています。
「アクター・ネットワーク」という言葉は、最初フランス語の「acteur-réseau」の訳語として英語の文献に登場した。その主導的な擁護者のひとりであるブルーノ・ラトゥールが後から気づいたように、その訳語は意図しなかった意味を与えられることになった。情報通信技術の革新を反映してか、一般的には、ネットワークを特徴付ける属性は連結性、つまり「変形なしの輸送、即時的かつ直接的なあらゆる情報のアクセス」とされている。ところが、「réseau」という語はネットワークとまったく同等に網状織物、……神経システムの網状構造、クモの網も指すことができる。ところがたとえば、クモの網の線は、コミュニケーションのネットワークの線とはかなり違い、点をつなげたり、事物を組み合わせたりはしない。動くときに身体から分泌されることで引かれるクモの線は、それに沿ってクモが行為し知覚する線である。
ちょうどそのような生成変化の線から「acteur-réseau」が構成されることを、この用語の考案者たちは(「ネットワーク」という訳語に惑わされた人は別にして)意図していた。彼らのひらめきは、主にドゥルーズの哲学からきていた。……したがってラトゥールが後に提案したように、それぞれが「多くの放射線状に伸びる線で取り囲まれる中心をもち、あちらこちらへと通じるあらゆる種類のとても小さな導管をもった」星のかたちで描かれる。有機体はもはや場所から場所へと自力で進むことができるような自己完結的な対象ではなく、成長の線からなるいつまでも分岐する網として現れる。
(『生きていること』p.209-10)
こうなってくると、アクターネットワークとメッシュワークの違いが不明瞭になってきます。いったい両者の差はどこにあるのでしょうか。
私の読む限り、インゴルドの議論には、メッシュワークを生命の本質とみなして、そうでないありようを批判する心性が見て取れます。それゆえに、メッシュワークの動きを執拗に記述していきます。
それに対して、少なくともラトゥール流のANTは、(おそらくはアネマリー・モルやジョン・ローの影響も受けて)インゴルドの存在論とも通底し合うかたちで発展してきたものの、アクターネットワークを本質と見なすことはありません。あくまで、ANTは、有機体のメッシュワークを超えて、さらには流動/固定を超えて万物をフラットに記述するための手段であり、目的は、多重的な世界の組み上げに資することにあります(詳しくは『社会的なものを組み直す』第二部、わかりやすい解説は近刊の『アクターネットワーク理論入門』)。
したがって、(英文雑誌を読んでいるとちらほら見られますが)インゴルドを参照して、ネットワークとメッシュワークを対比させてANTを批判するのは端的に間違いであるといえます。インゴルドの批判は、記述方法にすぎないアクターネットワークを対象世界と同一視しようとする俗流ANT理解にこそ向けられるべきではないでしょうか。
ギブソニアンの視点
本書の訳者のお一人であり、本書をご恵送いただいた青山慶さんが、岡部大介さん&伊藤崇さんが配信する「コンヴィヴィアラジオ」に出演されています(下記動画)。
https://www.youtube.com/watch?v=igJ2s9kITpk
この配信のなかで、青山さんは、インゴルドのギブソン批判に対して、「環境は生成・流動しているのは確かだが、そのスピードの違いに眼を向ける必要もあるのではないかというのがギブソニアンの立場である。なかなか変わらないものもある。むしろ、私たちは変わらないものを探して生活している」と指摘され、インゴルドとギブソンの「オブジェクト」理解の違いにも結びつけて議論されていて、上記の観点からも膝を打ちました! インゴルドの魅力が伝わる1時間です!