『保健医療社会学論集』35巻1号の特集「保健医療実践における技術・モノ・道具」に寄稿しました(伊藤さゆりさんとの共著)。
この論文は、前後半に分かれています。前半では、保健医療社会学におけるANTによるエスノグラフィの意義について、その一般的な理解に留まることなく、保健医療実践を扱った代表的なANT流のエスノグラフィを参照しながら4点に整理しています。
その上で、後半では、「専門知」と「ケアの倫理」の両面を引き受ける言語聴覚士の実践を対象にANT流のエスノグラフィーを実践することで、生物医学的な専門知に根ざした支配的なケアのありように「批判的に近づく」ANT流のエスノグラフィーの意義を浮かび上がらせようとしています。
この論文を読めば、保健医療社会学の領域でANT流のエスノグラフィーの「ひとつ」を書けるようになる(と思います)。
書誌情報
伊藤嘉高・伊藤さゆり, 2024,「保健医療社会学とアクターネットワーク理論―専門知とケアの倫理とをつなぐ言語聴覚士のエスノグラフィ」『保健医療社会学論集』35 (1): 15-25.
論旨(論文冒頭をリライト)
保健医療社会学にとってのANTの意義といえば、一般的には、「エージェンシーの分散を描きだし、本質主義的な疾患・生涯理解からの脱却を図る」といったことになるかと思います。
たとえば、脊髄性筋萎縮症の患者が書斎で仕事できているとします。ANT流の記述は、そのエージェンシー(行為能力)を患者自身(主体)に還元することなく、患者自身とコンピュータ、机や椅子、さらにはケアの専門職の人びとに分散されているさまを描き出すものとなります。この患者の行為は、これらの異質なヒトやモノの「ハイブリッドな集合体」(Callon and Law 1995: 485)によって可能になっているというわけです。
さらに、この視点を応用させることで、ある疾患や障害は、いわゆる客観的・外在的なものではなく、何らかの行為をできる/できない状態を生み出すヒトやモノの連関の結果・効果にすぎないものとしても記述されてきました(Moser and Law 1999)。
ただし、この視点は質の悪い相対主義にも陥りかねないものです。保健医療社会学の一派は、生物医学に根ざした専門知の支配に対して、人びとの主観的な自己認識、自己解釈を現代医学に再び組み込もうとしてきました。「客観的なまなざしも重要だが、それと等しく、患者による多様な解釈の余地を残すことも重要だ」というわけです。しかし、ANTはこの立場を取りません。そこには大きな罠があるからです。
ほら、それが避けられない罠なのです。「Aだけでなく、Bも」というわけです。その結果、この主張をあらゆるものに広げることで、客観性を無用のものにしてしまうか―「解釈」が、「客観性」の別称になってしまうのです―、でなければ、解釈を実在性(リアリティ)の一側面、つまり人間の面に制限して行き詰まることになります―この場合、客観性は常に塀の向こう側にあります。塀の向こう側のほうがこちら側よりも豊かであるとされようと、貧しいとされようと、違いはありません。いずれにせよ、手の届かない所にあるのですから。(Latour 2005=2019: 276)
近年のANT流の保健医療社会学は、身体について客観的に測定できる生物医学的事実に基づき実践を組み立てる専門知に対して、さらには、ある時点での主体の自律的な意志決定を重視する生命倫理に対して、両者―いずれも主体/客体の二分法に根ざしている―に共通の盲点があることを指摘してきました。
すなわち、実践の場面においては、生物医学的事実とは無関係に存在する、非還元論的なヒトやモノたちによる脱中心的な相互作用・相互変容の終わりなきプロセス(アクターネットワーク)をケアが対象にしていることが見逃されてきたということです。
私たちは、いかにして、身体を知る客観的とされる科学的方法をいたずらに批判することなく、主観的とされる方法を擁護することができるのでしょうか。ANTは、「近代のエピエステーメー」を脱し、主観/客観、私的/公的の二分法を離れ、ヒトとモノがからみあう実践において「身体が作られているとき(body in action)」に照準するエスノグラフィーの実践のなかにこそ、その可能性を見出そうとします。
そこで、本論文の前半では、モルとローの超有名論文「Regions, networks and fluids: anaemia and social topology」以降のANT流のエスノグラフィの展開をたどることで、その勘所を下記の4点に整理しています。
- 主客の二分法を超える実践を描く。
- 移動/不動、単一/複数の並存を描く。
- さまざまな二分法を超える連関(つながり)に対するケア実践を描く。
- ケア実践に対して「批判的に近づく」。
さらに、本論文の後半では、ANT流のエスノグラフィの実践を試みています。具体的には、言語聴覚士による失語症検査を取り上げ、その検査で使われるモノのエージェンシーを理解し、主客二分法を超えて「コミュニケーション能力」を評価しようとする言語聴覚士の実践が、専門知とケアの倫理との関係を組み直す実践になっていることを記述し、その実践を擁護しようとしています。
本特集について
本特集は、エスノメソドロジー研究者の海老田大五朗さんによる企画ですが、海老田さんの差配により、保健医療社会学の領野に留まらないインプリケーションを有する特集になっていると思います。
たとえば、ANTでは、ラトゥールが「人間社会は、「間主観性」(アナログな複雑性)から、「間モノ性 inter-objectivity」(デジタルな複合性)へと移行しており、前者にとどまるならばそれはヒヒの社会学になってしまう。だからモノの媒介に焦点を当てるのだ」などとして、二分法的・線形的に語る場面もあります(『社会的なものを組み直す』pp.377-382など)。
それに対して、今回の特集では両者の並存が描き出されています。さらには、間主観性ないし間身体性とされてきたものもまたモノを媒介にして成り立っているさまもまた、それぞれの論文でそれぞれに描き出されています。このように、必ずしも保健医療社会学に関心をもたない読者にも有益な特集になっていると思います。