モアザンヒューマンの世界をどう紡ぐか?―『ケアを呼ぶもの』訳稿検討会メンバー募集

今日の技術科学と自然文化の世界を「非規範的で非主体的なケア」の視点から問い直すマリア・プーチ・デラベヤカーサの画期的な著作『ケアを呼ぶもの』(Matters of Care)。2025年度中の翻訳出版を目指し、現在、翻訳を進めています。

本書は、ANT、フェミニズム科学論、ケア論、環境人文学など、極めて多岐にわたる分野を横断する重要な著作です(本書については、先日、科学社会学会の研究会で行った報告もご参照ください)。そのため、多くの読者に届く開かれた訳文を創り上げるためには、専門分野の垣根を越えた多様な視点からの検討が不可欠です。

そこで、ラトゥールの『社会的なものを組み直す』の翻訳のときと同様に、訳稿をともに検討いただけるメンバーを募集します。さまざまな分断が深まるばかりの今日、本書は、綺麗事だけの理想主義にも無責任な相対主義にも逃げることなく、モアザンヒューマンの世界に物質的な義務をもたらす非規範的で脱主体的な倫理と「関わりあおう」とします。この重要な著作を日本の読者に届けることに関心のある方の参加をお待ちしています。

なお、恐れ入りますが、参加いただく際には以下の3点をご確認ください。①守秘義務を遵守頂けること、②少なくとも訳稿ファイルを通読頂けること(意味が取れないところに線を引いて頂くだけでも構いません)、③最終的な編集権が訳者と出版社と原著者にあることを認めて頂けること。

※「学部学生でも読める」水準を目指して、すでに学部ゼミ、大学院ゼミでも訳稿の検討を行っており(たとえばこの記事)、ゼミ学生たちのおかげで、現在でもかなり読みやすくなっています!

検討会概要

  • 形式:事前に訳稿を共有。メールやZoomによる1対1のやりとりを基本として、やりとりの内容をメーリングリストやGoogle Drive等で随時共有することで、集合的に議論を深めていきます。できれば、対面での検討会も企画したいです。
  • 期間:2025年7月〜2026年2月。
  • 御礼の方法:あとがきに明記。献本。さらに、私も論文草稿等の下読みをします。

とくに歓迎する方

  • 科学社会学、STS、ANT、フェミニズム、ケア論、環境社会学、環境人文学、哲学・倫理学等の分野を専門とする研究者(所属は問わない)、大学院生の方。
  • 原書と丁寧に付き合わせて日本語翻訳の質について議論することに関心のある方。
  • 所属や専門分野を問わず、本書やその関連する議論(ラトゥール、ハラウェイ、ステンゲルス、バラッド)に強い関心(あるいは「内なる異論」)を持ち、読者の視点から積極的に意見交換に参加してくださる方。

参加方法

ご参加いただける方は、伊藤まで、①お名前、②ご所属、③ご専門・関心領域、④簡単な自己紹介(他のメンバーに向けて。リンクも可)、⑤メールアドレス(googleアカウントとして登録されているアドレス←よく分からない方は気にしないでください)を明記の上、ご連絡ください。締切は、2025年7月6日(日)です。

▼▼下記フォームからもご参加頂けます▼▼

よろしくお願いします!

序論冒頭部の抜粋(脚注は訳注案)

ケア[1]、ケアすること、ケアする者。重荷を背負った語であり、議論を呼ぶ語である。それでもなお、ケアは、分かりきったことであるかのように、特定の専門的技術や知識に収まることなく、日々の暮らしのなかでごく普通に広く行われている。私たちのほとんどは、何らかのかたちで、ケアを必要としていたり、ケアを感じ取っていたり、ケアされていたり、ケアを目にしたりしている。ケアはあまねく広がっており、ケアがなされていないことで生まれる影響によっても、そのことは分かる。無視され放置される苦難から切なる思いが生まれ広がっていくように、ケアは物事のなかで生まれ、境界を越えて広がり、全体に行き渡る。ケアが欠ければ、結び目は解かれ、ばらばらになるほかない。ケアすることは、時に心地よく、時にひどく嫌な気持ちにもさせる。相手のためになることもあれば、相手を抑えつけてしまうこともある。人間や無数の生き物にとって、ケアは生の維持に欠かせないものであるがゆえに、実に容易く支配のための道具になってしまう。しかし、ケアとは何なのだろうか。情愛なのか。道徳的な義務なのか。仕事なのか。重荷なのか。歓びなのか。習得したり練習したりできることなのか。それとも、ただすることなのか。ケアはこれらすべてのことを意味するし、状況や人によってその意味が変わる。したがって、諸々のケアのやり方は具体的かつ経験的に見出され、研究され、理解されうる一方で、ケアの意義や存在論[2]となると依然として両義的(アンビバレント)なままなのである。

こうした両義性を抱えた不安定な地歩をためらいつつも積極的に受け入れることで、本書では、人間にとどまらない[3]諸世界のなかで考え、生きるうえでケアのもつ意義を思弁的[4]に探求できるようにしたい。ポストヒューマニズムに関わるものを名づける方法はほかにもあるなかで「人間にとどまらない(モア・ザン・ヒューマン)」という表現を選んだのは、それが、非人間(ノンヒューマン)人間以外のもの(アザー・ザン・ヒューマン)―物、客体、物体、他の動物、生き物、有機体、物理的な力、霊的存在など―と人間とを分け隔てることなく一息に語れるからである1)。こうした存在論的な射程を〔ひとつの表現で〕囲い込むことは、死活的に重要である。というのも、技術科学[5]と自然文化[6]が結びついた時代にあって、この惑星上に生きる無数の種や存在たちの暮らしと行く末とが否応なしに絡み合っていることは、かつてはそうでなかったとしても、今や誰の目にも明らかになっているからだ。確かに「人間にとどまらない」という用語は満足のいくものではない。抽象的で種差性[7]に欠けているし、人間を「超克」して人間を「上回る」ものへと私たちを誘う道徳的な雰囲気をまとっているからだ。また、依然として人間の中心性から出発し、それを「超える」域に達しようともしている。とはいえ、たいていの場合、ケアがいまだに人間のすることとして考えられているなかで、この語は、……


[1] 英語のケア(care)には、日本語で表すと「世話すること」(労働や仕事)、「気になること」(情動)、「よりよい状態を目指すこと」(倫理)という三つの意味内容があり、本書でもこれらの三側面の緊張関係が論じられているため、原則としてそのまま「ケア」と訳す。ただし、「ケア」と訳すと意味が不明瞭になる場合は、適切な日本語を充て原語のルビを付す。

[2] 存在論(ontology)は、本書の文脈では、存在そのものの根拠を問う伝統的学問を指しているのではなく、存在の根拠、とりわけ、「関係」によってある存在が構築されていく動きを指している(関係については、訳注●を参照)。同様の用例はラトゥールの『社会的なものを組み直す』などでも見られるが、ラトゥールの場合は、「関係」ではなく「連関」の語を用いる。

[3] 人間にとどまらないないしモア・ザン・ヒューマン(more than human)は、人類学や環境学などの分野で用いられ、従来の人間中心的な視点に収まらない事態を指す。すなわち、人間が主体的に世界を構成しているのではなく、非人間(動物、植物、テクノロジーなど)もまた重要なエージェントであり、人間や非人間のさまざまな存在の相互作用、相互依存、共進化などによって、さまざまな世界が構築されているさまを指す。「人間にとどまらない」という訳語を佐々木寛和氏に教示いただいた。

[4] 思弁的(speculative)は、本書の文脈では、「さまざまな存在に関わりあうなかで生まれる、人間世界の既存の枠組みを超えた想像力によって未知の可能性を探る」といった意味合いで用いられている。語源的には、ラテン語のspecula(鏡)やspecere(見る)に由来し、本来は「よく見る、熟考する」という意味であり、決して空想的なものではない。

[5] 技術科学(techonosciences)は、自然文化と同様に、従来は別々のものとして考えれてきた、科学(知識の探求)と技術(物づくり)が不可分のものとして絡み合っているさまを指す。

[6]自然文化(naturecultures)は、自然と文化の二分法(たとえば、「客観的、客体的な単一の自然」と「主観的、主体的な複数の文化」の二分法)を超え、これまで自然とされてきたもの、文化とされてきたものが渾然一体となってそれぞれの世界が織りなされているさまを捉えようとする概念である。たとえば、人間と犬の今日の関係は、人間が狩りのパートナーや番犬が欲しくて狼を手懐けた結果なのかもしれないが、ハラウェイが論じているように、実際には人間による一方的な関係ではなく、互いに影響を与え合い相互に変化しあった結果として生まれた共生関係である(犬によって狩猟や牧畜のあり方が変わり、犬もまた人間の残飯からデンプンを消化できるように遺伝的適応をした形跡がある)。

[7] 種差性(specificity)とは、人文系でしばしば用いられる語であり、簡単に言えば「他とは異なる独自の性質」といった意味合いである。ただし、本書ではステンゲルスやホワイトヘッド、ドゥルーズらの知的文脈のなかに明確に位置づけられて用いられている。つまり、種差的とは、厳密に言えば「類のなかで他とは異なる独自の性質を有している」という意味であるが、種は本質的、固定的なものではなく、差異の現れの一パタンに過ぎず(差異が種に先立つ)、伝統的な哲学とは逆のかたちで類的(generic)なものと対比されている。ステンゲルスが参照しているホワイトヘッドによれば、一般的(general)なものは種差的なものを包含する普遍的で特権的なものであるのに対して、類的=総称的な定義はそうした規定的な力を有していない。類的なものは、集合的でありながらも、あくまで個々の状況のなかで具現するものであり、特定の規範や構造に回収されることがない。したがって、類的な定義は、すべての種差的なものにとって適切で有意義な特徴を照らし出そうとするものである。類的な定義は共通の「問い」をもたらすものの、その答えは常に種差的である。たとえば、類的なケアの定義は、「どんな状況にもケアの契機が潜んでいる」という可能性に目を向けさせてくれるが、種差的なものに絶えず差し戻されることで保たれる可塑的な一般性にすぎない。

参考情報

書誌情報

  • Puig de la Bellacasa, Maria, 2017, Matters of Care: Speculative ethics in more than human worlds, University of Minnesota Press.(マリア・プーチ・デラベヤカーサ『ケアを呼ぶもの―モアザンヒューマンの世界におけるスペキュラティブな倫理』ナカニシヤ出版)

目次

Introduction: The Disruptive Thought of Care

Part I Knowledge Politics
one Assembling Neglected “Things”
two Thinking with Care
three Touching Visions

Part II Speculative Ethics in Antiecological Times
four Alterbiopolitics
five Soil Times: The Pace of Ecological Care

Coda

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