原発事故以後、ローカル・ノレッジ(民衆の知、市民の知)に対する日本社会のネガティブな評価が逆に高まっているのではないか。「(ときに「放射脳」とも形容される)素人は余計な口を挟まず、専門家集団が自律性を高めればよい」、「たいして専門的経験のない一般市民の意見を等しく取り上げれば社会は崩壊してしまう」、「市民は、数ある専門知(行政知)のなかから、自らのローカルな状況に適ったものを選択していけばよい」といった具合に。しかし、そうした態度をとり続ける限り、「原子力村」に象徴される日本社会の構造的問題は解決しないだろう。
この記事では、ローカル・ノレッジに対するネガティブなまなざしは、(自覚的であれ無自覚的であれ)いずれも自然/社会(文化)、専門知/民衆知という誤った近代的二分法に由来するものであり、ローカル・ノレッジの擁護は、決してロマン主義的な理想論や反権力的なイデオロギーによるものではないことを明らかにする。
この種の誤りは、実のところ、社会学における正統派リスク社会論も引きずっているものであり、上記の二分法を超えるリスク・ガバナンスの実現ににこそ、一般市民のパニック状況からの脱却とともに、正統性を有する新たな政治秩序形成の可能性があるのだ。
正統派リスク社会論に対する文化論的批判
リスク社会論といえば、まずは、ウルリヒ・ベックとアンソニー・ギデンズの名が挙げられるだろう。しかし、彼らが問題にしているのは、あくまで「実在」のリスクが高まっていることであり、その焦点は専門知にある。そして、後述するように、後期近代に入り複数の科学知の競合状況が生まれていることを問題にする一方で、科学知の「実在論(リアリズム)的」概念化を批判することはない。
その結果、再帰的近代化をうたっておきながら、一般市民の有する再帰的プロセスに「十分な」光を当てずに済ませている。一般市民レベルにおけるギデンズの再帰性概念は、親密圏、対人関係のものに限られている。そして、スコット・ラッシュやブライアン・ウィンらが論じているように、非専門的な公共領域における集合的な民衆知(公共知)の有する再帰性の意義が見過ごされている(そして、日本では、一部の社会学者を除き、ラッシュやウィンらに通じる議論はほとんどなされていない)。市民社会における再帰性とはなにか?
多くの社会学の議論では、「前期近代における専門家システムへの自動的信頼」という命題が自明視されてきた。つまり、前期近代人は盲目的に「偉い人の言うことに間違いはない」と考えてきたというのだ。たとえば、ギデンズは、後期近代における再帰性の由来を、専門家の権威そのものに対する一般市民の疑義にではなく、グローバル化と脱埋め込みに対する私的な対応(すなわち「選択機会の増大」)に求めている。前期近代における自動的信頼から(simple modernity)、複数の専門知に対する一般市民の積極的な選択的信頼へ(reflexive modernity)という、おなじみの図式が描かれるわけである。
しかし、専門家システムに対する自動的信頼が社会全体を覆っていたことなどない(Wynne 1987, 1990, 1994)。常に一般市民の間には心理的アンビバレンスのなかでの再帰的依存があったのだが(「すべてお任せするほかない」状況下で、その内面は常に揺れ動いている)、ギデンズはそれを非再帰的な信頼と混同しているのだ(Wynne 1987)。つまり、ギデンズは、初期近代における専門知の非競合的状態を一般市民からの信頼と同一視し、後期近代における再帰的過程を、新たな生活不安(専門知のゆらぎ)に曝された一般市民による選択の結果だとしたのである(Wynne 1992)。
ギデンズらの議論に対する反証は数多くある(Welsh 1993, 1995)。たとえば、英国における反原発の声は1970年代に環境保護運動の高まりとともに生まれたという一般的認識があるが、実際には1970年代以前から全国的、国際的な政治的反対があり、決して原子力に対する一般市民の自動的な信頼はなかった(そうした疑義の声は「無知蒙昧」として制度科学から排除されていただけである)。
したがって、ここで視点の転換が起きる。第一に、市民の不信は、専門家レベルの反論、議論の後に続いて生まれるのではない。逆に専門家レベルの反論こそが、一般市民の間の懐疑の存在を背景に促され、成立し、影響力を獲得しているのである。我々は、水俣病のケースなどを考えてみればよいだろう。
第二に、市民の表立った不信・反対が存在しないからといって、市民からの信頼が存立しているわけではない。専門知の制度からの市民の排除や専門家制度に対する市民のアンビバレントな態度は、必ずしも行動にあらわれるものではない。非制度的な形式の経験・知識が制度的専門知から抹殺されてきた例は枚挙にいとまない。
というのも、制度的専門知の内部では往々にして既存の社会/自然秩序が維持されるメカニズムが働くからだ。とりわけ複雑性の高い状況下では、新たな知見を織り込もうとすればするほど不確実性が高まってしまう。したがって、制度的専門知は、既存のリスク評価を固定化してしまう(原発推進のように!)。複雑性すら還元主義の対象となり、単純なものからスタートし徐々に複雑なものに対応するという決定論的メカニズムが働く。「始めてみなければ何事も進まない」
しかし、制度的専門知の設定する基準には往々にして科学外の文化的要素が入り込んでいる(原発推進の他にも、遺伝子組み換え食品における商業文化の影響について、Wynne 2005a)。制度科学は常にアド・ホックな決定論によっており、そして、不確実性は「科学」の名によって排除されてきたのだ。科学者や官僚は、「偶有性があることを示すと、確実性を求める一般市民は、新たな試みのすべてを頭から否定してしまう」というのだが。
専門家システムへの依存は積極的信頼ないし自動的信頼と同一視するべきではない。あくまで「仮の」信頼でしかない。初期近代のように(単一の)専門知、制度科学に依存している場合でも、その専門知、制度科学との関係における再帰性は常に働いている。科学と一般市民の信頼との関係はギデンズの想定よりもはるかに複雑であり、その中心にはアンビバレンスがある。信頼は、依存の経験や排除の可能性、主体性の欠如を背景に形成されている。ただし、依存や主体性の欠如は合理化されるために表面化しない。「おやっ」と思っても、その思いが社会的に表面化されることはない。
以上をまとめると、再帰的過程は専門知の競合から起こるのではなく、もっと再帰的な市民のアンビバレンスが常に存在してきた。したがって、非再帰的信頼→再帰的信頼というギデンズ的図式は成り立たない。
民衆や市民の知の再帰性の存在こそが科学ひいてはガバナンスの再帰性を保証することになる。ここにリスク・ガバナンスにローカル・ノレッジを組み込むことの社会学的意義のひとつがある。
さらなる意義―リスク・ガバナンスの文化的次元
ギデンズやベックはこう論じる。後期近代の産業社会は自らの生み出すリスクをコントロールすることができなくなり、その規模はグローバルに広がるため逃れることもできない。したがって、従来のガバメントによる制度的保証は有効ではなくなり、「個人の選択」の機会が増えるにつれ、存在論的不安が高まるのだと。
しかし、こうした議論は、新古典派的な合理的選択による経済人モデルに偏重している。ベックの場合、専門家に対する今日の一般市民の信頼の喪失は、「専門家に裏切られた」という思いに由来するとされるものの、それはあくまで合理的思考のモデルが前提となっている。ギデンズが問題にしている公共領域における専門知の競合もまた、合理的選択の視点からのみ捉えられている。
しかし、ポイントは、物理的なリスクの如何をとわず、こうした合理主義的言説を通すことによって、一般の人びとに規定的な人間/社会モデルを押し付けることになることだ(Wynne 1992; Irwin and Wynne 1995)。市民によるリスク認知はむしろ、(リスクをコントロールされるとされる)専門制度が信頼に値するのかどうかについての判断に合理的に基づいている。つまり大半のリスクは社会関係的である(Wynne 1996a)。
大半のリスクは実際には知的構築物であって、不確実性は計算可能な程度まで人為的に縮減されている。しかし、こうした「自然な」フレームをつくりだす社会的前提――つまり科学は客観的に真であり、個々の人間の意見は文化的なバイアスがかかっている――はほとんど認識されていない。そして専門的な「自然な」知識はインプリシットな社会/人間モデルを体現している。
この種の不確実性を考えると、存在するとされるリスクの大きさを評価することにとどまらないことが合理的であることになる。というのもそうした評価をおこなうことは、常により大きなリスクを持ち込むことになるものであるからだ。したがって、責任があるとされる制度の(将来にわたる)信頼性、能力、独立性を問う方がより合理的である。こうした制度的次元は、物質的リスクのスケールに影響を及ぼすからだ(検査機関が厳格に検査をしなければ、リスクは高まる!)。
したがって、市民によるリスク認知には、社会制度に対する判断という要素が絡んでくる。この判断に組み込まれているのが、生活上の価値を守るために、それら制度にどの程度依存するのか、そして、その依存がどのような意味を有するのかについての評価である。こうして、先に見た依存とその合理化の複雑性という問題に立ち返ることになる。
科学的知識(リスク分析)は、社会的価値次元を無視し、不確実性を自らの客観主義モデルに従って縮減し(Wynne 2005a)、確実性/客観性を装い、その結果、人びとの生活を規定する影響力を社会に及ぼす。そうした制度科学に依存することによる非物理的リスクを無視してはならない。このリスクの起源は、物理的リスクを直接コントロールするとされる制度科学の非人間的、非社会的な構制、規定にある。つまり、これらは基本的な社会的アイデンティティを脅かすものとなるのだ。人間同士が人間的につながれなくなるのだ。計算に係わる「外部」リスクよりも感情に係わる「内部」アイデンティティ・リスクが問題になる。人びとがパニックに陥るのも、その科学的リテラシーのなさを嘲笑する前に、その背景にアイデンティティ・リスクの問題があることを考える必要があるのではないか。
現実世界に対する専門知的仮定の妥当性に対するバナキュラーな知もまた、見過ごされがちな公共知の重要なカテゴリーである。公共知と専門知の分岐の要因は、みてきたような専門知の客観主義的フレームにあると考えられることから、専門知に対する公衆の疑義や反対は純粋に合理的なものではなく、その客観性が問題にされているのであって、徹底して解釈学的/文化的なものなのである。
ギデンズらは専門家システムによる生来の生活の意味を無化する介入を問題にする一方で、ウィンらは専門知が稠密でありながらも不十分な価値を持ち込むことを問題にする(科学の知は中立ではなく、意味を貧困化させ、一般人のアクセスを遮断する)。不確実だからこそ、関係の持続が生まれる。インフォーマルな「文化の政治学」が後期近代になって広がった理由を考えなければならない。
専門知(普遍知)/民衆知(特殊知)二分法を超えるリスク・ガバナンス
新たなガバナンスの可能性は、専門知自体の「全能性」を問題にすることから生まれる。ただし、「主観的な」公共知が「客観的な」専門知に勝っていると主張したいわけではない。しかし、先に見たように、非専門世界の知が知的に意味をなさないという前提も誤りである。
専門知と公共知の間に構築された境界は実際のところ流動的で相互浸透的である。ところが、科学的専門知は、厳密な基準化に構造的にコミットしているため、専門的な公共知を軽視し否定してしまう。さらに科学的専門知は、一般市民の抵抗を無知、非合理性に基づいたものとみなす傾向がある。
こうして、そうした排除と社会的コントロールとを行う専門家へ依存していることに対する一般市民のアンビバレンスが強まる。「リスク社会」における根本的なリスクは、文化的に平板な人間モデルへの非再帰的な盲信によって働く専門家システムに対する依存によって生まれるアイデンティティ上のリスクなのである。
リスク・ガバナンスが問題にすべきは、近代的ガバメント、経済、政治、科学技術制度の正統性であり、新たなガバナンスの秩序と権威を創出することがその課題となる。すなわち、新たなガバナンスとは、公共知の形式を疎外することなく正統性を高め、不確実性のなかから安定した権威を形成していくものでなければならない。
一般市民がガバナンスのプロセスに参加することで、必然的に普遍的な知と交接することになる。ローカル・ノレッジないしローカル・アイデンティティは、近代の非人間的な普遍知のオルタナティブではない。むしろ、人間性の次元を隠すことのない普遍知を支えることのできる集合的な自己概念をガバナンスによって形成する誘因となるのだ。
ギデンズらがいかに「サブ・ポリティクス」を提唱しても、民衆知/専門知の境界はその問題構制の対象外に置かれてしまっている。しかし、ラトゥールが言うように、科学が純粋に「近代的」であったことなどない(Latour 1992)。その本質は常に「近代」(開放性、普遍性)と「伝統」(閉鎖性、特殊性)の間の社会的緊張にある。ウィンが論じているように、ベックもギデンズもその議論の中心にあるのは「普遍」の構築と権威の回復にあるが、それは近代的「普遍」の再生産にとどまっている。リスク・ガバナンスとは、徹底して民主化の可能性を問うものなのである。
※次の記事「なぜリスクは過小/過大に評価され、専門知が貶められるのか―メアリ・ダグラスのリスク文化論」に続く。
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参照文献
- Beck, Ulrich, 1986, Riskogesellschaft: Auf dem Weg in eine andere Moderne, Frankfurt: Suhrkamp Verlag.(=1998, 東廉・伊藤美登里訳『危険社会―新しい近代の道』法政大学出版局.)
- ―, Anthony Giddens and Scott Lash, 1994, Reflective Modernization, Cambridge: Polity Press.(=1997, 松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』而立書房.)
- Giddens, Anthony, 1990, The Consequences of Modernity, Stanford, CA: Stanford University Press.(=1993, 松尾精文・小幡正敏訳『近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結』而立書房.)
- Irwin, A. and B. Wynne (eds.), 1995, Misunderstanding Science, Cambridge: Cambridge University Press.
- Latour, B., 1992, We Have Never Been Modern, London: Harvester Wheatsheaf.(=2008, 川村久美子訳『虚構の「近代」――科学人類学は警告する』新評論.)
- Welsh, I., 1993, ‘The NIMBY syndrome and its significance in the history of the nuclear debate in Britain’, British Journal for the History of Science, 26(1): 15-32.
- ―, 1995, Nuclear Power: Generating Dissent, London: Routledge.
- Wynne, B., 1987, Risk Management and Hazardous Wastes: Implementation and the Dialectics of Credibility, Berlin: Springer.
- ―, 1990, ‘Major hazards communication: Defending the challenges for research and practice, in H. B. F. Gow and H. Otway (eds.), Communicating with the Public about Major Accident Hazards, London: Elsevier, pp.599-612.
- ―, 1992, ‘Misunderstood Misunderstandings: Social Identities and Public Uptake of Science’, Public Understanding of Science 1: 281–304.
- ―, 1995, ‘Public Understanding of Science’, in S. Jasanoff, T. Pinch, G. Markle and T. Petersen (eds) Handbook of Science and Technology Studies. London and Beverly Hills: Sage.
- ―, 1996a, ‘May the sheep safely graze?’ in S. Lash, B. Szerszynski and B. Wynne, Risk, Environment and Modernity, Loodon: Sage..
- ―, 1996b, ‘The identity paradoxes of SSK: Reflexivity, engagement and politics’, Social Studies of Science, 26.
- ―, 2001, ‘Creating Public Alienation: Expert Cultures of Risk and Ethics on GMOs’, Science as Culture 10: 445–81.
- ―, 2002, ‘Risk and Environment as Legitimatory Discourses of Technology’, Current Sociology 50(3): 459–77.
- ―, 2005, ‘Reflexing Complexity: Post-genomic Knowledge and Reductionist Returns in Public Science’, Theory, Culture & Society, 22(5): 67-94.