正月早々、親戚回り+初詣の最中に空き巣被害に遭った。ただし、被害は私の財布の中身だけだ(窓ガラスの破損もあるが)。人に話すと「いくら盗られたのか」と聞かれる。しかし、金額の多寡はどうあれ、カネ自体は(盗むのではなく!)働いて稼げるものなので、それは大した問題ではない。問題なのは、働いて得たお金には(盗んだものとは違って!)くださった人の思いが込められていることだ。その思いだけは帰ってこない。
少し青臭いことを書いた。さて、仙台に戻ってきた4日、河北新報夕刊一面の「仙台・川平 元町内会長1200万円着服」なる記事を見て、気分はさらに沈む。とはいえ、私の財布の中の金額のほうがはるかに少ないものの、はるかに大きな「罪」を犯しているのは、かの窃盗犯のほうである(むろん、町内会長の行いも許されるものではない)。
この川平の町内会は、昭和後期に創設された町内会(約360世帯)であり、元町内会長が創設時からずっと会長を続けていた。しかし、かならずしも町内で「ふんぞり返っていた」わけではない。昭和期や平成期の住宅団地の町内会は、町内会長の威信の体系が機能していない典型であるからだ。「人間は皆、平等」というわけ。
紙面をめくると、「再考・町内会」の第一部の連載記事が始まっており、この問題の内情がうまく書かれている(因みに第二部では、私たちの研究会の調査結果が掲載される)。詳しくは紙面を参照されたいが、町内会長の過負担と町内会員の無関心さの対照性が浮きぼりにされている。
別の昭和期住宅団地で、勤め人でありながら町内会長をされている人が次のようにおっしゃったことがある。
「地域のあらゆる問題が、町内会長に苦情や文句としてやってくる。かつては区制というものがあって、今では町内会等育成奨励金というかたちになっていますが、そのイメージがあるためか、今でも町内会が半官半民の組織であると思っている人が多い。体育にせよ福祉にせよ、すべて町内会長のところに来る。あるいは町内会の助けを求めてくる。町内会は苦情の処理機関でいいのか、全体で考え直さないといけない時期に来ている」
記事でも同様の事態が明らかにされており、さらに、会計監査も機能していなかったという。町内会長は聖人君子ではない。
さて、今後、この川平の町内会では、会計の透明性を高めていく努力をしているという。しかし、この努力も現状では問題をはらんでいる。それについては、またの機会に述べたい。