一貫して嫌ってきたのが、縁故主義(身内びいき、ネポティズム)である。無能かつ怠惰な他人がひいきされるのは、この上なく不快だ。だが、同様に無能な自分が何かしらの不公正な恩恵にあずかれる場合には、なかなか拒否できない。勝手だ。しかし、自分から恩恵を求めるほど卑屈ではない。つたない献身があるだけだ。
さらに、権威主義的な権力者はいうまでもないことだが、「心」が無意味に強調される時代には、「知り合いの社会的な面倒を個人的にみてやる」ことが一つの美徳とされかねない。これこそ、インフォーマルな社会的階層の再生産の原理に他ならないのに!
あくまで正論を貫くために、自らの「価値」を守り、他者との距離感を保つ。克己の結果、「価値」に見合う実力が得られなければ、それだけの人間なのだから仕方ない。価値無き世界は腐敗の世界。最近、忙しさにかまけて、自らの浅学さを忘れかけていたので、書いておく。
さて、週末の連休中に、吉原教授らの科研費研究会「コミュニティ・自治・歴史研究会」が神田の学士会館で開催された(私は事務局)。初日に報告いただいたのは、市町村合併に批判的な立場から論陣を張っている小原隆治先生(成蹊大学教授/行政学・地方自治)。
報告の内容は、研究会雑誌『ヘスティアとクリオ』の次号(3月刊行)に掲載されるので、ここで私が述べても仕方ないが、概略を示せば、明治と昭和の大合併に比して、平成の大合併の根拠と理念のなさが理路整然と説かれるとともに、分権から自治へという今後の改革の方向性を示された。そして、この際に問題になるのが、「自治」のありようをめぐっての地方自治体と地域コミュニティの位置づけであり、その具象の一つとして自治基本条例を考えることが出来る。そして、ご自身の実践をもとに、その可能性と「危うさ」をご指摘いただいた。
興味深いのは、二日目に報告いただいた菊池美代志先生(帝京大学教授/都市社会学)の話もまた、町内会というグラスルーツの分析をたどりつつも、全総後の国土計画という視点から、分権と「地域自治」の関係が今日重要になってくることを強調されていたことであった。ちなみに、菊池先生の調査は講和条約直後の町内会復活期(!)に始まるが、すでにその当時から近代化論/文化型論(簡単にいえば、近代化論とは、町内会は近代化とともに失われる遺物であるとする立場であり、文化型論とは、町内会は日本の文化であり永続的なものであるとする立場)とは一線を画し、町内会を生活集団として捉える視点を一貫して提示されてきた。
どうやら、「コミュニティ・自治・歴史」という研究会の名前の由縁がみえてきた。なお、次号雑誌発刊の際に、ウェブ・サイトも立ち上げる予定なので、興味のある方は、そちらをご参照ください。