ヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史―19世紀における空間と時間の工業化』(The Railway Journey)について、高山宏は「この「百貨店」および「流通」と題されたごく短い文章(pp.234~45)は、19世紀文化史(Kulturgeschichte)を志す者、その全文をしかと暗誦して然るべき卓絶した霊感に満ちた部分であろう」としている。同感である。
■高山宏の読んで生き、書いて死ぬ
マルクスもフロイトもみんなみんなレールウェイ
http://booklog.kinokuniya.co.jp/takayama/
archives/2007/10/19.html
シヴェルブシュは、鉄道とその車室の窓がもたらした平板的な「パノラマ的景観」によって、五感を介した人と土地との有機的なつながりが失われ、産業資本主義的な「視覚的消費」が生まれて、場所が商品となりゆくさまを鮮やかに描き出しているのである。
しかし、高山宏が「シャルル・ボードレールを『チャールズ・ボードレール』とした表記に繰り返し出合うので、その程度の訳なんだと思った」と指摘しているように、邦訳書は単純な誤訳が散見されるので注意が必要だ。たとえば、本書を締めくくる最後の文(p.245)はこう訳出されている。
「世界は、二十世紀の観光旅行においては、地方や都会にある大百貨店と化しているのである」
意味不明である。原文はこうだ。
“By the twentieth century the world has become one large department store of countrysides and cities.”
中学生でも分かる単純明快な文である。したがって、指摘するまでもなく、たとえば、次のように訳すべきである。
「二十世紀までに、世界は、田園と都市からなる一つの巨大百貨店と化したのだ」
これは些細な例であるが、難解な人文社会系の邦訳書を読むと、時として、自分の理解力のなさに愕然とすることがある――「どうして、頭の良い人たちは、このように意味不明な文章を理解できるのだろう」と。しかし、答えは簡単である。誰も理解していないのである。
大学院に入りジョン・アーリなどの邦訳をする機会を与えて頂くようになってから、私はこの真実に気がついた。もちろん、すべての翻訳書がひどいわけではないし、難解と思っていた書が、いつのまにか容易に理解できるようになる場合もある。
しかしながら、学生時代には、それが自分の頭の悪さのせいなのか、悪訳のせいなのかが分からない。したがって、学問上の良き師を早いうちから得ることが何よりも重要であると考える。