友人や知人から、病院から退院する際、「追い出された」という話を聞く。なぜそうした事態に至るのか? 病院内の医療提供体制のみに目を向けた近視眼的な回答をするならば、こうだろう。
すなわち、日本は、医療費抑制政策を背景とした、先進諸国と比較した場合の絶対的な医師不足、病院職員不足がみられ、低密度医療が展開されてきたために、今日の急性期医療の需要に対応しきれなくなってきている。そこで、近年、急性期医療機能の集約化を進めることで、急性期医療の効率的な提供体制の確立が目指されている。その結果として、急性期病院は急性期の治療のみを行うことになっている。
かくして、在院日数の短縮が進み、退院の時期が、患者・家族の考えるような「治療終了」ではなくなっている。すなわち、急性期の入院非適応となり、地域や他医療機関での治療・療養が可能になった時を指すようになっているのである。したがって、ときとして、患者・家族は病院から「追い出された」という感覚をもつことになるが、それは制度上やむを得ないことだ。そもそも、これまでの日本の在院日数が長すぎたのだ――
以上の背景認識自体は正しい。しかし、「制度上やむを得ないのだから、患者・家族の不満は不当なものだ」と考えるのであれば、それは間違っている可能性がある。
急性期の治療は終了しても……
そもそも、急性期病院の治療は、とくに高齢者の場合、治療後も、高度な医療提供や看護・介護を受けないと生活が送れない状況となってしまうことが少なくない。たとえば、
(1)医療の高度化によって長期延命が可能となり、生命維持のために、気管切開、人工呼吸器、経管栄養といった侵襲度の高い医療処置を受けたために、自宅復帰や施設入所が困難となるケースが挙げられる。人工呼吸器の取り外しや経管栄養の中止は、尊厳死をめぐる議論と関わっており、一度導入すると中止するのは容易でないのが現状である。
(2)入院生活が長くなると、長期伏臥により認知症の進行を含む廃用症候群が生じることがある。廃用症候群とは、「医療安全」と「安静第一主義」のもと、長期の安静伏臥により、身体活動量が低下することで引き起こされる心身機能の二次的な障害である。1週間の伏臥で筋力は15~20%低下し、その回復には1か月かかる。さらに、長期伏臥によって、筋力低下のみならず、関節拘縮や心肺機能低下、起立性低血圧、静脈血栓症、尿路感染症、誤嚥性肺炎、褥瘡(床ずれ)なども引き起こされる。
(3)高齢者の場合、疾患が慢性化しやすく、合併症や後遺症も生じやすいことから、退院後も継続した治療や医療管理の必要なケースが多くなる。前述の在院日数の短縮がそうしたケースの割合を高めている。ところが、患者・家族は治療のポジティブな面を強く見てしまう傾向があり、かならずしもこのことを理解した上で治療を受けていない。
病院内は、高度な医療管理と医療安全のために均質化された「非日常」の空間であり、ときとして、患者は生活の自律性を失い、受け身の医療が展開されてしまう環境にある。つまり、患者や家族は治療を受ける客体としての役割を引き受け、非日常にある病気や死のことを自分のこととして主体的に受け止める環境にはなく、生の自律を奪ってしまう危険性があるのだ。
命は助かったけれども、生の自律が失われたのであれば、真に生/生活を救ったことにはならない。もちろん、こう言ったからといって、人工的な延命のすべてを否定するつもりはない――人や物や場所とのつながりのなかで積極的に生きるという意志が失われることを問題にしているのである。ただし、高齢者の場合、必ずしも治療によって元の状態に戻れるわけではない。
そこで、患者・家族が、心身機能が低下した状態を受容し、新たな生活を主体的にイメージし、構築していくことで、はじめて「追い出された」という感覚に至らずに済むことができる。そして、ここで重要になるのが、退院支援の役割である。
患者・家族に寄り添う退院支援とは
「心臓が剣山」の宇都宮先生(公式サイトより)
退院支援をめぐっては、2006年の医療法改正で、退院後の調整が努力義務化されて以降、一般に、病院から在宅や施設への移行の際には、病院の退院調整部門がそのマネジメント機能を担う部署として位置づけられている。しかし、退院調整とは異なり、退院支援は、介護サービスへつなぐといったマネジメントだけを行うものではなく、患者・家族に寄り添う病棟の「文化」にまで関わるものである。
退院支援の第一人者である宇都宮宏子によれば、退院支援は「生活の場で継続的な医療を入院中に組み立てる」という考え方が重要であるという(宇都宮先生は、先日、本学部と県医師会の共同事業「退院支援部署応援プロジェクト」の講師としていらっしゃり、その心だてに大いに感化された)。
かつては病院内での生命維持、医療の質が最優先され、退院後の生活は退院直前までほとんど考慮されてこなかった。そこで、宇都宮は、生活の場に戻るとき、「いま提供している医療は必要なのか」「在宅で継続できるのか」という視点から優先度を考え、生活の自立・自律を第一に、医療を組み立てるという発想を取り入れることになったのである。
具体的に、宇都宮は以下の3段階からなる退院支援プロセスを掲げている(1~2段階は病棟看護師が主体的に関わり、第2~3段階で調整が必要な局面になって、はじめて退院調整看護師やMSWが前面に出ることになる)。
第1段階では、退院支援が必要な患者の把握(スクリーニング)がなされ、外来での入院申込時、あるいは入院48時間以内に行われる。入院申込時の場合は、入院や手術に関する簡単なオリエンテーションを実施するとともに、入院前の生活状況、家族状況、介護体制、住宅環境を把握し、退院調整看護師が退院時の患者の状態像をイメージし、退院をテーマに話し合うのである。
ここで重要なのができる限り早期に行うことであるという。入院前や入院直後から、自宅に帰るという目的意識を共有することで、医療者とともに、病気と向き合う気持ちを維持していくことができるからである。
したがって、スクリーニングも、入院前の生活状況・生活背景だけではなく、入院目的、患者の病態、入院時のADLといった病態関連も重視し、「病名・病態から、退院の頃の患者の状態をイメージする」ことが必要になる(当然、その際には、医師等とのチームによるアセスメントが行われる)。
第2段階は、患者が病態を理解し受容するための支援と、自宅でできる医療・看護を患者・家族とともに考え、自立を目指す支援を行う段階であり、入院3日目から退院までに行われる。これは、患者・家族が、病態を理解したうえで、実現可能な退院後の生活像を主体的に設計するための支援である。
そして、入院中の医療やケアについても、生命維持最優先ではなく、患者が望む自立した生活を送ることを可能にする退院後の医療管理と生活・介護を頭に置いて行われることになる。とくに、重装備の在宅療養は危険性が高く、また過度に在宅医療に依存する生活は、患者や介護を行う家族にとって無理のかかることも多く、逆に生活の自立を遠ざけてしまうことにもなるからだ。
そして、第3段階で、ようやく、前2段階を踏まえて必要性が明らかになってきた在宅療養の環境を整えるサービス調整を行うことになる(従来の退院調整)。がん患者や高齢者で、看取りを迎える可能性のある場合、退院前カンファレンスを実施し、急変への対応についても話し合い、治療の限界や看取りのイメージを患者・家族と医療者・介護者とが共有することで、はじめて無理のない在宅療養も可能になるのである。
(以上、冒頭に掲載した宇都宮宏子編『退院支援実践ナビ』医学書院、2011年による。また、『これからの他院支援・退院調整』『病棟から始める退院支援・退院調整の実践事例』などの他の書籍も優れて実践的であり、疾患別の事例や各病院の先進的な事例が取り上げられており、勉強になる。)
生‐死をつなぎ、人間性の維持・回復をもたらす医療
さて、以上のような退院支援と退院調整の質の差をあらわすのに適した概念が、厚生経済学者アマルティア・センのケイパビリティ(潜在能力)の平等という概念であろう。ケイパビリティとは、本人の主観的な選好や選択とは別に、ある一つの目的を達成するために採用できる手段の多様性のことである。つまり、ケイパビリティの平等とは、生きる手段の多様性が万人に広く開かれていることを指す。退院支援もまた、罹患により生きる手段が限定され、生の可能性を自発的に狭めてしまうなかで、その多様性を開き、当事者の主体性を取り戻そうとする実践であるといえるだろう。
ハイデッガーを引き合いに出すまでもなく、死とはひとつの瞬間でも境界でもない。生と死は浸潤し合い、つながりあっている。死なき生はなく、そして、生なき死はない。とするならば、病にある者の生を肯定することが、その肯定的な死の前提になければならない。
「まわりに負担をかけるから早めに死にたい」と言う高齢者も多い。「無意味な延命」が問題視されるなかで、「自己決定による死」が強調されることもある。しかし、中立的な立場から自己決定を強いるだけであれば、それは、「迷惑だから死んでもよい」と言うのと同じではないか。
生/死の二分法を離れるならば、「無意味な延命」の対極にあるのは「自立・自律的な生」の構築であるはずだ。障害を抱えていようと、残された時間が少なかろうと、「どう死にたいか」を決定するためには、「どう生きたいか」が問われなければならない。
経済的な貧困であるだけであれば、就労機会を提供したり生活保護を適用すればよいかもしれない。心身に異常があるだけであれば、必要な医療や介護を提供すればよいのかもしれない。住む場所・施設がないだけであれば、サービス付きの高齢者住宅を整備すればよいのかもしれない。
しかし、そうした場面に登場する高齢者たちは、それだけでは解決できない問題を抱えていることが多い。すなわち、死の外部化によって成り立ってきた今日の〈都市〉の論理からの自身の乖離によって生まれる失望と諦念による自発的な社会的周縁化、社会的排除(社会からの「追い出し」)という問題である。
こうした自発的な社会的排除に至るプロセスにみられる負のスパイラルを断ち切るために医療が立たすべき役割は大きい。すなわち、心身の維持・回復はもちろんのこと、生と死の分断ではなく、その混和のなかで、人間性の維持・回復をもたらすという役割をも有しているのである。
退院支援機能の充実に向けて
先に触れた篠田道子先生・宇都宮宏子先生の講演会のなかで、私は、宇都宮先生に対して、「そうした退院支援を実現していくために、退院支援(調整)部署には、どの程度の人員配置が必要であると考えるのか」と質問した。宇都宮先生からは、「病棟のナースが退院支援に対する意識を持って取り組むことが必要で、そうなれば、退院調整看護師は1人いればよい」といった回答を頂いた。
ただ、山形県内の実情をみると、退院調整看護師が複数名配置されている病院(日本海総合病院は4.5名!)は、こうした退院支援に熱心に取り組んでいるのに対して、1名しか配置されていない病院(県立病院など)は、調整の業務で手一杯といった状況である。したがって、私は、是非とも体制強化をしていただきたいと考えている。
つまり、退院支援に対する文化を各病棟や外来で醸成するためにも、まずは、退院支援に対する高い意識を持った退院調整看護師を複数名配置することが必要であると考えるのだ。そして、院内全体で退院支援の態勢が整ったうえで、退院調整看護師を1名に戻せば良いだろう。
いずれにせよ、退院支援の文化が病院全体に広がることで、外来や救急、さらには、訪問看護ステーションとの連携も進み、看護部が総体として地域の医療・介護・生活の「つながり」を生み出す役割を果たすようになることを期待してやまない。
今回の書籍
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