アクターネットワーク理論について、私は新参者に過ぎません。大学院生時代に英国のモビリティ研究を摂取する際に間接的に触れ、いくつかの論文で参照することはありましたが、本格的に学び始めたのはここ5年ほどです。
ラトゥールの拙訳書『社会的なものを組み直す―アクターネットワーク理論入門』は、幸いにも、法政大学出版局の叢書ウニベルシタスでウルリヒ・ベック『危険社会』以来のベストセラーになりつつあります。「ラトゥールの原文よりもはるかに読みやすい」との声も頂いていますが、科学論を専門にしていない者だからこそ、多くの方の手助けを得て、分野の共通理解に頼らない翻訳ができたのかもしれません。
とはいえ、それでも「何となくはわかったけれども、腑には落ちていない。経験的研究に落とし込めない」といった声も耳にしてきました。そうした折、本書『アクターネットワーク理論入門』の編者であり、アクターネットワーク理論(ANT)を専門にしている栗原亘さんから本書の企画にお誘い頂きました。
したがって、本書は「入門書」をうたっていますが、私としては、『社会的なものを組み直す』では十分に説明が尽くされていない論点と経験的研究を掘り下げており、ふたつの書を読むことで、ANTに対する十分な理解が得られると考えています(受容するにせよ批判するにせよ)。
本書第1部「基本編」では、アクターネットワーク理論成立の背景と過程、基本概念が紹介され、第2部「実践編」ではANTによる代表的な経験的研究のポイントが整理され、第3部「発展編」では、ANTの今後の発展可能性が論じられています。
私以外の共著者(森下翔さん、金信行さん、小川湧司さん)は、いずれもアクターネットワーク理論を専門的に研究されている若手研究者ですが、これまでの国内外での研究の蓄積をきちんと踏まえられており、本書の打ち合わせでは毎回、私が一方的に学ばせてもらうばかりでした。
本記事では、私の担当章(コラムを除く)の冒頭を紹介します。
目次
書誌情報
- 栗原亘編、伊藤嘉高・森下翔・金信行・小川湧司著(2022)『アクターネットワーク理論入門―「モノ」であふれる世界の記述法』ナカニシヤ出版.
第3章「ANTの基本概念をたどる~記号論という「道具箱」を調査に持参する」
アクターネットワーク理論(ANT)は、前章で見たように、さまざまな誤解にさらされる一方で、さまざまな批判を取り込み、独自の展開をみせてきた。そして、2005年にB. ラトゥールによって初の「入門書」である『社会的なものを組み直す』(ラトゥール 2019)が刊行されてから、さまざまな誤解も払拭され、今日の世界的な隆盛を見ている。
しかし、「流行」は「表層的な理解と受容」と背中合わせである。たとえば、『社会的なものを組み直す』の第一部では、五つの不確定性―ひとつに確定できないもの―が展開されているが、最初の三つの不確定性については、ANTを持ち出さなくても他の分野ですでに指摘されていることのように見える(実際には違うのだが)。
第一の不確定性―グループはない、グループ形成だけがある―について言えば、たとえば、家族というグループは、外在するものではなく、常に形成され続けなければならないといった話である。この点については、私たちが家族を維持するためにどれだけのものを動員しているのか考えれば改めて指摘されるまでもないだろう。日々の呼びかけ、食事、誕生日のプレゼント、盆暮れの正月の集まりなど、挙げていけばきりがない。
第二の不確定性―行為の発生源はアクターを超えている―に関しては、たとえば中動態の議論がよく知られている(國分 2017)。しかし、中動態の議論を知らなくとも、私たちの日々の行為が、私たちの意思を超えてなされていることは常識である。
第三の不確定性―モノにも行為をもたらす力がある―についても、分散認知などで散々論じられてきたことだ。皆さんも、スマホで文字入力する場合と、パソコンのキーボードで文字入力する場合と実際に文字を書く場合とで、文章の内容が変わってしまうのではないだろうか。つまり、ここまでの議論であれば、あえてANTを持ち出す必要はない。
しかし、第四の不確定性―「厳然たる事実」は暫定的な効果に過ぎない―と第五の不確定性―確定的な記述を行うことはできない―を踏まえると、それまでの議論の意味合いも根本的に変わってしまう。ただし、残念ながら、このANTの根本をなす議論が十分に理解されているとは言いがたい。
たとえば、ラトゥールは、「ANTを、半ばガーフィンケルであり半ばグレマスであると評しても、的外れではないだろう。ANTは、大西洋の両岸で見られる最も興味深い知的運動の二つを単純に結びつけ、アクターによる報告とテクストの双方の内的再帰性を育む方法を見出してきた」と記しているが(ラトゥール 2019: 105)、この文言の意味するところを読者は正確に把握できているだろうか。把握できていないために「ANTは、読む分にはよいが、自分の研究には使えない」といった反応が出てきているのではないか。……
第7章 ANTと法~ANTは無責任な理論なのか
これまでの各章(とりわけ第3章)で見たように、アクターネットワーク理論(ANT)にしたがって私たちの直観に忠実になってみれば、万物は連関しており、行為の発生源は不確定である。しかし、そのことを認めるのであれば、行為の責任の所在はどうなってしまうのだろうか。誰が責任を取ればよいのだろうか。「自分のせいではない」という無責任が跋扈してしまうのではないか。これは、ANTに対する典型的な批判と言えるが、誤解に基づく批判にすぎない。
この種の批判を行う者が理解していないのは、ANTは科学であり、責任を割り当てる法とは異なることである。では、法とは何なのだろうか。裁判においても科学的な証拠が持ち出されているではないか。法と科学とはどう違うのだろうか。
まず、法とは何か。世間の注目を集めた凶悪犯罪に対して「甘い」判決が下された場合に、「裁判所は現実離れしている」と批判されることがある。そうした批判のなかでの法は、単なる形式的表現であり、つまりは、扱われている事案に対して何らかの規則を当てはめ、一般的なカテゴリーへ分類しているにすぎない。法にとっての現実は、法の「構造」にしかないというわけだ。
さらに、ある種の社会学、社会批評に言わせれば、法は、社会的なもの(階級やイデオロギー)によって左右され、社会的なものによって説明できる面があるという。「法には相応の力があるけれども、そこに「社会的次元」を加えるならば、法についてもっとうまく理解できる」というわけだ(ラトゥール 2019: 11)。もっと極端な批判法学の場合には、法は社会的なものを覆い隠すためにあり、社会的なものが法をつくっているとみなされることにもなる。
しかし、ANTは、そうしたかたち(すなわち、構造や社会的なものといった「メタ言語」を持ち出すかたち)で法を説明しない。外部から「法について語る」のではなく、法の実践者たちが「法的に語る」ことを可能にしている条件(法の「適切性条件」➤第10章)を探るのである。そして、B. ラトゥールが見出すのは、法は躊躇という実践のなかにあり、法が社会ないし「社会的なもの」―ここでは、人間を含む事物の連関のことを指す―を作り上げていることである。
どういうことなのだろうか。本章では、ラトゥールの『法が作られているとき』(2017)に焦点を当てて、ANT流の法の記述方法を見るとともに、法と科学と責任の問題を考えてみよう。……
第9章 多重なる世界と身体~媒介子としての身体のゆくえ
私たちにとって身体とは何か。身体を本質的なかたちで定義するのではなく、「私たちはどのような場合に身体について語るのか」から議論を始めるのがアクターネットワーク理論(ANT)のやり方だ。最もハードなのは、身体の異常を訴える場合であろう。体に痛みを感じたり、逆に何も感じなかったりと、世界と正しく向き合えなくなった場合に、身体の異常を訴える。身体は、世界とつながり、世界の影響を受け、行為を行うための媒体(メディア)をなしているのだ。
しかし、身体もまた事物の一つにすぎず、事物の連関のなかで身体も「構築」(➤第4章)される。とすれば、身体もまた単一の実在(厳然たる事実)ではありえないし、身体の異常についても同様である。とはいえ、第2部までの議論と同様に、ANTは身体や疾病に対しても反実在論を唱えるものではない。
そこで、本章では、まず、身体にするANT流の実在論的態度のあり方を検討するために、医療の実践を扱ったANTの著作を取り上げたい。オランダの人類学者であるA. モルの『多としての身体―医療実践における存在論』(原著2002年、邦訳2016年)である。
さらに本章では、今後の展望として、モルの議論を踏まえ、身体を扱う科学にとってANTの有するポテンシャルを考えてみたい。具体的には、実在と身体の関係について検討し、世界の分節化の媒体である身体の多重性こそが人びとの自由と世界の実在性を高めるうえで鍵を握っているのである。……
目次
はじめに
重要語句の道案内第1部 基礎編
01 ANT成立の時代背景と人文学・社会科学における
「人間以外」への関心の高まり(栗原 亘)1 問題設定
2 自然科学および科学技術への関心の高まり
3 人文学・社会科学内における動向
4 エコロジーへの関心の高まり
5 「環境問題」とエコロジー運動および人文学・社会科学における動向
6 まとめ02 ANT略史
その成立と展開および批判に関する見取り図(栗原 亘)1 本章の位置づけ
2 サイエンス・スタディーズ
3 プロトANTからANT成立まで
4 初期ANTへの批判
5 ANTの展開03 ANTの基本概念をたどる
記号論という「道具箱」を調査に持参する(伊藤嘉高)1 はじめに:ANTの基本概念の出自をたどる
2 パリ学派記号論+エスノメソドロジー=ANT
3 アクターとアクタン:テクストによる報告の構成要素
4 強度の試験:「強く」実在するアクターの誕生
5 内向推移/外向推移:参照フレームの移行
6 循環する指示,不変の可動物:物質と記号の果てしない指示の連鎖
7 科学としてのANTの意義:中間項を媒介子にして,組み直すコラム1 ANTの「同盟者」たち:そこに「源泉」は存在するのか?(栗原 亘)
第2部 実践編
04 ANTと科学
史料分析と参与観察に基づく科学観・科学者観の更新(森下 翔)1 論争する科学者たち:ANT前史
2 「翻訳」する科学者たち:カロンによる科学記述
3 『戦争と平和』と科学の過程:ラトゥールによる科学記述
4 非人間の働きかけ
5 構築とはなにか
6 「標準的科学観」とANT:現代の科学実践の「ANT的」分析にむけて05 ANTと技術
技術の開発と活用過程における人間と非人間のダイナミクス(金 信行)1 はじめに
2 技術の社会構築主義的研究
3 B. ラトゥール「ハイテクのエスノグラフィ」
4 H. ミアレ『ホーキング Inc.』
5 おわりにコラム2 国内研究動向(科学社会学・哲学,技術哲学)(金 信行・栗原 亘)
06 ANTと経済
遂行性アプローチの分析視角とそのインプリケーションについて(金 信行)1 はじめに
2 経済事象の経験的分析
3 M. カロン「複雑性を飼いならすツールとしての文書化/書き換え装置」
4 D. マッケンジー「経済学は遂行的なのか」
5 おわりに07 ANTと法
ANTは無責任な理論なのか(伊藤嘉高)1 法のダイナミズムを生み出す「泥臭い」法的推論
2 法と科学:「無対象的な」法的客観性
3 存在様態論へ:法と科学を分別し交渉させるコラム3 日本の人類学におけるANTの展開(小川湧司)
08 ANTと政治/近代
「政治」を脱・人間中心的に組み直すための思考法(栗原 亘)1 ANTにおける「政治」
2 「近代」へのANT的アプローチ
3 「政治」の組み直し
4 モノたちの議会と争点指向的な政治観:民主主義を脱・人間中心化する
5 おわりにコラム4 都市(伊藤嘉高)
第3部 展望編
09 多重なる世界と身体
媒介子としての身体のゆくえ(伊藤嘉高)1 動脈硬化は実在しない?
2 単一の動脈硬化を成り立たせる実践
3 動脈硬化を断片化させない実践
4 痛み,血圧,患者,人口,外科医,メス……:万物の連関のなかの動脈硬化
5 医療実践におけるANTの意義
6 身体と自由10 存在様態論と宗教
ラトゥールは宗教をいかにして記述しうるのか?(小川湧司)1 ANTと存在様態論
2 「宗教」概念批判論に対するラトゥールの身振り
3 存在様態[REL]を規定する二つのステップ
4 おわりに11 人間-動物関係とラトゥール
動物の「非-還元的な」記述とはいかなるものでありうるか?(森下 翔)1 「非-人間」概念と「動物」概念
2 ANT論者による「非-人間」の記述:乳酸菌とヒヒ
3 『動物の解放』とANT:非還元と還元のあいだで
4 「動物の議会」の多声化:生態人類学からみる去勢と母子分離
5 ANT以降の関係論的動物論
6 動物の未来のヴィジョンと「共存の科学」としてのANT12 異種混成的な世界におけるエコロジー
海洋プラスチック汚染というモノ(thing)を記述する(栗原 亘)1 「環境問題」から「人新世」へ:エコロジーの現在
2 ANT的な記述と批判理論的な「批判」
3 プラスチックとは何か:一にして多様な存在体
4 近代的なオブジェクトとしてのプラスチック
5 近代的オブジェクトの再分節化過程
6 ANT的な記述の役割:学習曲線を描く集合体の構成事項索引
人名索引