今年度から、本学医学科4年の公衆衛生学実習に関わることになった。この実習は、学生が10数名ずつに分かれ、チュートリアル教育方式で教員がつき、グループ学習・調査を進めるというものだ。今年は、約1か月のあいだに、週1、2コマの時間が割り当てられた。
私は、「生命倫理」班を担当することになり、具体的なテーマは、班員一人ひとりからの提案と投票の結果、「デザイナーベイビー」になった。もちろん、私は、「デザイナーベイビー」の専門家でも何でもないので、学生さんたちが自主的に学習をし、調査の仮説を設定する作業を行うことになった。
目次
デザイナーベイビーとは
初回にテーマ設定ができたので、次回(翌週)までに、各人がデザイナーベイビーに関する文献を1本ずつ読んで、発表することになった。
(ちなみに、その際、「読んでくる文献が重ならないように、選んだ文献を班長に報告して、班長が確認したらどうか」と提案したら、「LINEでグループを作って共有するので問題ない」と即答されました。)
デザイナーベイビーとは、「優れた」形質をもつドナーからなる精子・卵子バンクから、望んだ形質が子供に現れる可能性が高まる卵子と精子を組み合わせたり、あるいは受精卵の段階で直接遺伝子操作を行なうことで、親が望む外見や能力などをもった子どもを生まれさせようとする技術だ。
多くの人びとは、こうした遺伝子操作を非倫理的なことであると考えるだろう。現在のところ、先天性疾患の治療法としての遺伝子操作の研究が進んでいるが、そうした研究も、デザイナーベイビーにつながりかねないとの懸念も根強く、どこまでを遺伝子操作の対象とすべきかの議論もなされている。
他方で、そうした遺伝子の強化(エンハンスメント)が、(かつての優生学とは異なり)個人の自由に委ねられるのであれば、何も悪いことはないと主張する人もいる。親は自分たちの子どもに最良のスタートを切らせる自由を持つべきだし、貧富の格差が問題になるのであれば、課税や補助金によって、子どもの遺伝子の経済格差が生まれないようにすれば良い、などと主張するのである。
問題意識と仮説設定~個々人の生命倫理観は、個人の人生経験や自己評価によって左右される
しかし、本当に個人の選択の問題に過ぎなくなるのか。よく言われるように、遺伝子操作に対する私たちの志向が、人びとに過度のエンハンスメント(社会適応のための自己強化)を強いる社会の構造がもたらしている面もあるとすれば、遺伝子操作を個人の選択に委ねることは大きな問題をはらむのではないか――これが、学生の皆さんが出してきた問題意識であった。
つまり、個々人が一定の倫理観(デザイナーベイビーに対する懸念)を持っていても、デザイナーベイビーを生み出す遺伝子操作技術への態度が、人生経験や自己評価によって左右されてしまう可能性があるならば、過度の競争を強いる社会のありようが変わらない限り、自然と遺伝子操作の対象が拡大し、底なしの競争が引き起こされる危険性があるのではないか、というわけだ。
そこで、「社会に影響され形成された自己評価が、当人の生命倫理観に影響を及ぼす」という仮説設定にもとに、デザイナーベイビーの技術が利用可能となった場合にどのような使い方をするのかに関するアンケートを、医学部内の教職員と学生に対して実施することになった。
アンケートでは、まず、自分の外見・健康状態・能力(学力・運動能力など)に対する自己評価(満足度)を聞いており、次に、自分がデザイナーベイビーを利用する場合に、外見・健康状態・能力それぞれについて、夫婦間の遺伝子を用いてであれば選択したいか、他人の遺伝子を用いて外見を選択したいのかを聞いている(その際、配偶者の外見・健康状態・能力のことは考えないものとされている)。個人属性は、年齢、性別、子どもの有無、職業(医療従事者/非医療従事者/学生)である。
能力に不満を持つ人は能力に関する遺伝子選択をしたいという結果に
集まったデータを集計し多変量解析を含む分析を行った結果、実際に、とりわけ能力に不満を持つ人は能力に関する遺伝子選択をしたいと思っているなど、個々人の生命倫理観が、個人の人生経験によって左右されうることが示された。そして、報告書では、次のような結論に達している。
今回のアンケートによって、個々人の生命倫理観が、個人の人生経験によって左右されうることが示された。人はそれぞれ自分の中に一定の生命倫理観というものを持っているだろうが、個人の悩み・不安――そして、その背景にあるかもしれない社会からのエンハンスメントの圧力――によってその生命倫理観が揺らぐことは十分にありうる。実際、今回のアンケートでも、能力に不満を持つ人は能力を選択したいと思っているという結果が出た。
そして、将来、自己決定・自己責任の名の下にデザイナーベイビーの技術が一般的になった場合、それを使わないと選択した親は、子に与えられるものを与えなかったと社会から責められることになるかもしれない(さらには、子どもからも責められることになるのかもしれない)。その結果、ありのままの子どもを愛せなくなる可能性も指摘できる(子どもも「自分が生まれてきて良かったんだ」と思えなくなるかもしれない)。能力がたまたま与えられたものであるという意識がなくなったときに社会の連帯が失われるという指摘もある。
したがって、デザイナーベイビーが利用できるようになる未来を見越して、その生命倫理上の是非はもちろんのこと、他人の能力までをも自分のものにしたいという思いが生み出す底なしの能力競争から人びとを守るという点から議論を重ねることが必要である。健康に関する限定的な利用を認める場合でも、健康と不健康を適切に線引きする法整備がなされなければならない。
もちろん、短い時間かつチュートリアル教育なので(基本的に教員は手を出さない)、ひとつの研究としてみると、突っ込みどころはたくさん残されている(報告書の分量も制限があった)。しかし、「この手の実習は、往々にして、本気で取り組まず、単に『~~について調べました』になるんだろう」という私の思い込みに反して、今回の実習は、明確な問題意識に基づき、仮説を立て、統計学的に検証するというプロセスをしっかりと踏んでいる。
最後の発表会(プレゼン)では、他の班も同様に、課題設定から仮説検証に至るプロセスを踏んでおり、プレゼン発表も訴求力を高める工夫(聴衆への問いかけから発表が始まるなど)がさまざまになされていた(テーマは、大学の室内環境と集中力、ボディイメージのズレと健康意識、医学生の就職先希望と大学の魅力、動脈硬化予防を目的としたAI検査の活用などなど)。
チュートリアル形式は、教員の一方的な自己満足の講義に終わることなく、学生と教員が刺激し合える関係を作れるという点でも優れていると感じた。
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