いくつかの学校で社会学の講義を担当している。本務校の医学科の学生に接するときとは異なる(良い意味での)「刺激」が得られる貴重な機会である。昨年度までは、穴埋め式のスライド資料を毎回、配布していたが、印刷の質がいまいちであること、保管・保存のしやすさを考えて、今年度から冊子版にすることにした。
冊子にするとコストがかかると思われるかもしれない。しかし、一度に数百部発注すれば、毎回のコピー費用(+手間)とたいして変わらず、きれいに仕上がる。もちろん、PDFデータ入稿が前提にはなる。
また、通常、教育機関における著作物の複製・配付は著作権保護の例外として認められているが(著作権法第35条)、冊子体にして配布する場合には、認められない。私の講義スライドには、ドラえもんのコマが不断に登場するが、それは削除して、前後のコマも載せたものを資料として配付することにした。
こうして、『〈いま〉を生きる人のための社会学講義ノート』(170ページ)が完成した。せっかく冊子にしたので、「はじめに(まえがき)」を書くことにした。とりわけ、とある看護学校のごく一部の学生から「どうして看護に関係ないことを学ぶ必要があるのかわからない」という声があったからだ。とはいえ、そうした声を上げるような学生に対して、「はじめに」の内容は難しく、ミスマッチである、と思い至った。
そこで、「はじめに」の文章を衆目にさらし、恥をかくことで、第二版の改善につなげたい。
「はじめに」
わたしたちは、皆、さまざまな悩みを抱えながら生きています――身近な人間関係、自分の容姿、自分の性格、自分の将来、お金、家族、住まい……。社会学が教えてくれるのは、こうした日々の悩みをもたらす問題は、たとえ「生まれつき」もった心身の特徴に対することであったとしても――たとえば容姿の問題――、必ずしも「自然なこと」ではないことです。
社会学では、「わたし」の悩み(さらには、「わたし」という自己意識)は、自然なものではなく、「社会的」なつながり(仲間集団、家族、地域、学校、職場、国家、インターネットなど―さらには、モノとのつながりも含まれます)によって作り出されていると考えます。そして、多くの人が同じ悩みを抱くとき、それは「社会問題」になります。つまり、社会学は、「なぜ」わたしたちが悩んでしまうのか、なぜ社会問題が生まれるのかを考えさせてくれる学問なのです。
社会学を学び、「自己」がいかに社会的なつながりによって作り出されているのかを知ることで、自分という存在、社会という存在が当たり前のもの(=仕方のないもの)ではなくなります。そして、新たな「自己」と「社会」を不断に作り出していくための知的な力を手にすることができるようになるのです。
講義の方法
この社会学という学問について、これから「社会人」として働く人に向けて基礎的な講義を行うために、この「講義ノート」を作成しました。目次を見てもらえば分かるように、この講義では、身近な社会問題を取り上げ、それぞれのテーマのなかで、「自己」と「社会」(さらには「自然」)の関係を見ていきます。そして、そうした関係を、いつまでも、どこまでも、考え続け、そして、新たに築き上げ続けていくための知的基盤を形成することを目指します。言い換えれば、小難しい学説や理論からではなく、身近な悩みや社会問題から出発することで、社会学の学問的基礎(社会学的想像力)を着実に身につけてもらうことを目指します。
実際の講義は、本書と同内容のスライドを映しながら、進めていきます。本書は、大切なところが穴埋め形式になっているので、講義のスライドを見ながら、穴埋めをしてください。ただし、穴埋めをするだけでは、後で見返したときにスライドの内容を理解することは困難です。後で見返したときに内容が把握できるよう、積極的にメモを取ってください。その意味で、本書はあくまで「ノート」なのです。また、当日の講義スライドは当日中に筆者のウェブサイトにアップしますので、講義中はメモを取ることに専念し、穴埋めは復習時に行っても構いません。
社会科と社会学の違い
社会学は、高校までで学習する「社会科」とは異なります。「社会」の授業が、世の中の常識を教え込むものであるとすれば、社会学の授業の目的は、いかにして、そうした常識が作られてきたのかを学ぶことで、そうした常識に囚われることなく、一人ひとりにより良い人間関係(社会的なつながり)を作り出していく姿勢を身につけてもらうことにあります。
おそらく、最初のうちは、とまどうことになると思います。実際、講義の内容は易しくありません。しかし、ほとんどすべての学生は、自分なりに社会学を学ぶことの意義を見出してくれています。ここで、過去に私の講義を受けてくれた看護学生たちが寄せてくれた意見を見てみましょう。
社会学とは、今まで常識だと思っていたことが、必ずしも「正しいこと」ではないということを学ぶ学問である。看護師は、病気や障害により常識(「普通」)とされている行動が取れない人たちに寄り添っていく職業である。慢性的な病気や障害などで、「この人は普通ではない」というレッテルが貼られてしまうと、そのレッテルを剥がすことは難しく、自分でもそのレッテルを受け入れてしまいかねない。その結果、患者は、社会的弱者という立場に置かれてしまう。
「普通」の立場に立って、患者の「異常」を治すことももちろん必要なことだが(とりわけ急性の疾患の場合には)、すべてがそれで解決するのではない。そこで、社会学を学ぶことで、自分の常識という考えを取り払い、患者の置かれている社会的状況を見つめ直すきっかけになる。そして、普通であることを疑い、「普通であることが正しい」という思い込みを崩していかなければならない。このように「普通」や「常識」に対抗するために、わたしたちは社会学を学ぶ必要がある。
社会学を学ぶことの意義は、偏見やステレオタイプにとらわれたりせずに、常にものごとの本質(どのような人や物との関係にとって成り立っているのか)を見極めることにある。そこで必要とされるのは、個人のプライベートな問題を社会のパブリックな問題とつなげて、統一的に把握する能力である。一人の人間の生活を理解するためには、その人間を取り巻く社会の歴史を理解しなければならない。社会学とは、プライベートとパブリックをつなぐための知識を得るために、さまざまな社会的問題(ジェンダー、家族、都市……)を取り上げ、さまざまな角度から考えるための学問であり、社会を理解することで、一人の人間を理解するための学問である。
看護師として大勢の患者と接する際、患者一人ひとりを見なければならないと言われる。しかし、患者一人ひとりを見るだけでは、患者のことは理解できない。社会に目を向けて、その患者たちはどういった社会で生きているのか(つまりは、自分たちはどういった社会で生きているのか)を観察する必要があるということだ。
病院に来る人は、心身の疾患を抱えた人であり、社会的弱者として扱われることも少なくない。実際に、わたしは、学校のなかで、「病気」という理由でいじめられる人、差別を受ける人、自分が周りと違うことに苦しむ人を見てきた。しかし、「普通でないから差別される」のではなく、誰もが「普通であろうとする」から、スケープゴートなどのかたちで差別が生まれるのである。私たちが「普通」とする日常生活は、差別される人たちの上に成り立っているのだ。差別を無くすためには(とくに治らない病気に苦しむ患者に生きる勇気をもってもらうためには)、普通であろうとする私たちが変わらなければならない。このように、目の前の患者の個人的な問題を解決しようとするだけでなく、自己や社会の改善にも目を向ける態度を養うために、私たちは社会学を学ばなければならない。
社会学に唯一の正解はありません(唯一の正解とは、現実にある多様なつながりを切り捨てることで得られるものにすぎません)。したがって、上記の意見が「唯一の正解」ではありません。とはいえ、「何でも正解」というわけでもありません(「何でも正解」と主張するポストモダン社会学もありますが、私はその立場を取っていません)。そして、「唯一の正解」を疑うとともに、「唯一の正解がない」ことも疑ってください。つまりは、自分なりの答えを求め続け、何らかの答えを出し、そして、常に自分の声に耳を傾け、他者の声に耳を傾け、自分なりの答えに対する責任をとっていく――そうした人生を送るための胆力を学生生活でぜひとも養ってほしいと思います。そして、そのための土台を本講義で築いてくれることを願っています。