主に社会学の古典を読む自主ゼミのメンバー(若干名)を募集しています!
現在のメンバーは以下の通りです。
- 社会学専攻2年生
- 社会学専攻3年生
- 哲学専攻4年生
取り上げる書籍は以下の通りです(学生の提案により決めます)。
- アーヴィング・ゴフマン『日常生活における自己呈示』(中河伸俊・小島奈名子訳)ちくま学芸文庫、2023年、1,650円
- 初回(序論、第1章)5月18日5限
※自分の関心のある書籍の回だけ参加するスタイルで構いません(各回の定員は最大5名程度の少人数にしています。ただし、1対1はハラスメントの温床にもなりかねないため、2名以上集まったら実施します)。
参加を希望される方は、ご連絡ください(連絡先)。
「自主ゼミってなに?」という方は、以下をご覧ください。
社会学のことを「分かった気にならない」ために
社会学の授業や教科書では、さまざまな古典や重要著作が紹介され、そのポイントを学ぶことができます。私たちは日々たくさんのことを学ばなければならず、だとすれば、すでにポイントを学んだ社会学の古典や重要著作を直に読んでみようという気は起きないかもしれません。
しかし、原典(翻訳書ですが)を直に読むことで、教科書的な知識の浅さに気づくことができます(とんでもなく浅い!)。社会学(いや、あらゆる学問)において必要な姿勢は、学ぶ対象のことを「分かった気にならない」ことであったはずです。
であるならば、どうしてその姿勢を私たちが専門に学んでいる社会学そのものに向けないのでしょうか。
とはいえ、とくに古典ともなると、一人ではなかなか読む気になれない、あるいは、難しくて読める気がしないものです。そこで「自主ゼミ」です!
自主ゼミで「分からなさ」に向き合う
自主ゼミとは、正規のゼミではなく、一般に学生有志によるゼミを指します。単位も出ませんが、その分、熱意のある学生が集まるので、とことん議論ができます。
インターネットで「自主ゼミ」で検索すると、いろいろな取り組みがでてきます。学生のみで行う自主ゼミもあれば、教員も参加する自主ゼミもあります。私はあくまで有志の学生をつなぐ役割を果たそうとしているにすぎません(私は「答え」を教えるのではなく、学生と対等の立場で参加します)。
ただ授業を聞いているだけの15時間よりも、「分からなさ」に本気で向き合う3時間のほうが、よほど力がつくと考えています(通常のゼミや授業は、どうしても最大公約数的にならざるを得ないところがあります)。
いや、分からないことをうだうだ考えても仕方がない。時間の無駄だと思われるかもしれません。しかし、時間を無駄にできるのが大学生(と大学教員)の特権であると私は考えます。
「分かること」「分かっていること」「分かりそうなこと」で毎日を過ごせば、そこに時間の無駄はありません。敷かれたレールの上を時間通りに進んでいけば、「分かること」も増えていくことでしょう。
しかし、敷かれたレールの外にある「分からないこと」「分かりそうにないこと」に踏み出し、自分の足で無駄に歩き回らなければ、「自分だけが分かること」の幅は広がりません。「分からないこと」の幅も広がりません。人間も世界も貧しくなるばかりです。
あらゆるものがファスト消費されるいまだからこそ、教科書的な「浅さ」の先にあるさまざまな地平を一緒に探しにいきませんか?
学生同士でも、ぜひ自主ゼミを立ち上げてください。身近な教員に相談すれば、活動場所(教室)の手配などもしてくれるはずです。