2025年度の『ゼミ卒論集』が完成しました。これから、卒業論文の調査にご協力いただいた方々へのささやかな「お返し」として、学生たち自身が発送作業を行います。
本ブログでは、この『ゼミ卒論集』に掲載した「まえがき」の全文(一部、匿名化)を公開します。
なお、卒論の各論文と「あとがき」は、学内アクセス限定で学部ゼミのページからご覧いただけます。

まえがき
社会学は、あらゆる学問がそうであるように、狭い世界のなかで完結する小難しい学問ではありません。私たちが日常のなかで実践しているケアの営みそのものです。昨年度、私はこの場で「関わり合い」の重要性を説きましたが、今年度の学生たちの実践を通して、その視点はさらに深められることになりました。社会学的な関わりあいとは、単に見知らぬ他者とつながることではありません。それは、私たちが生きるこの世界が崩れてしまわないように日々行われている維持や修復といったケアの網の目に自らも身を置き、その営みに応答する義務を果たすことに他なりません。私たちは日々、時として非対称的なかたちで、他者を気にかけ、モノを手入れしながら、生きています。社会学を学ぶとは、そうした目には見えにくいけれども、世界を根底で支えている営みとともにあろうとすることに他なりません。
本論集に収められた卒業論文は、社会学の徒である学生たちが、〈いま〉の社会―人と人、人とモノの関係、さらにはそうした関係によってそれぞれの存在が成り立たっている(あるいは成り立っていない)さま―に対するそれぞれの関心と問題意識をもとに、各地のフィールドに入り込み、そこで織りなされている営みと関わりあおうとした成果です。
Y.Oさんは、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)における「居場所」を必ずしも能動的な参加によって形成されるものとは捉えず、「ただ居ること」を可能にしている職員たちのさまざまなケアを浮き彫りにすることで、高齢者住宅における居場所の構築プロセスを捉え直しました。S.Y.さんは、小規模多機能型居宅介護施設を対象に、在宅介護の現場における「第三者」の存在意義に向き合いました。ケアする側とされる側の二者関係に閉じがちな現場で生じる摩擦に対し、第三者が介在することで、日常性が維持されるさまを描き出しました。M.Yさんは、放課後等デイサービスにおいて子どもたちがモノを介して居場所を作り出す過程に目を向けました。武器作りやゲームといった活動によって、さまざまな関係が再編されることで、「安心」が修復・再形成されていく姿を描き出しました。
H.Yさんは、感情の商品化が極まるとされるスナックという夜の現場に対して「態度としての臨床」の視点からアプローチしました。ママやキャストが連携して、キャストと客との関係を集合的に維持・修復していく営みを丁寧に記述することで、感情労働の重荷を個人が抱え込まずにすむ集合的なケアの営みを明らかにしました。A.K.さんは、サ高住入居者の「幸福」のあり方を、心理学的な老年的超越論に回収することなく、インタビューの語りを通して、入居者が取り組み続ける「減算的調整」のプロセスとして捉え直しました。何かを自然にあきらめるのではなく、ネットワークを編み直し、日々の生を微調整することで現在の平穏を維持しようとする高齢者の営みを伝えてくれています。Y.Iさんは、福島県大熊町の復興においてインフラ整備に偏りがちな「大文字」の計画と、住民の関係性をつなぎ直す「小文字」の営みの乖離を見つめるとともに、まちづくり公社の活動を通じて、そうした二分法では収まらない現実に目を向けました。そこで描き出されているのは、復興の現場において、人びとに寄り添いながら、大文字と小文字を巧みにつなぎ合わせようとする地道な実践です。
M.S.さんは、制度化された「ケアの社会化」がケア関係を一方向的に固定化させる弊害を鋭く指摘しました。そして、山形市内の2か所のサ高住を対象に、園児や日常のモノ、多職種の職員といった多様なアクターが関わりあうことで、ケアが一方的ではなく「複数の存在のあいだを循環」することで、日常が維持・再生されていく豊かなプロセスを提示しました。A.K.さんは、子ども食堂における支援関係の固定化がもたらす重圧に着目し、支援の境界が曖昧になる「流動化」の仕組みを捉えました。子が掃除を手伝い、元利用者がボランティアへと回るといったように、役割が入れ替わり混ざりあい、既存の枠組みを揺さぶる関わりあいのなかに、誰もが身を置ける居場所が形成されていく可能性を見出しています。N.N.さんは、東日本大震災の被災地である石巻における外部支援者の長期的な関与を、「隣人性」の構築過程として追いました。瓦礫などの分かりやすいモノを媒介にした一時的な介入では届かない現実に対し、長い時間をかけて日常の網の目に溶け込み、関係性を地道に手入れし続けるケアの継続性と、その先にある信頼を記述しています。
これら学生たちの取り組みを通して、今年度もまた、指導教員である私は、大きな反省と学びを得ることになりました。調査前の指導の際に、私は、学生たちに対して「変化」を記述するようにと繰り返し促していました。何かと何かがつながることで、それらがどう変わったのか。そのダイナミックな相互変容のプロセスを描くことこそが、論文としての価値を生むと考えていたからです。しかし、多くの学生がフィールドから持ち帰ってきたのは、むしろ「変化しないこと」の価値でした。コミュニティが、よいものに変わるから素晴らしいのではなく、日々繰り返される地道な営みによって「変わらずにそこにある」こと自体が尊重されるべきことを描き出したのです。変化を求める私の言葉よりも、現場のリアリティに誠実であろうとした学生たちに、私自身が深く学ばされることとなりました。
さらに、学生たちの考察は、現代社会における価値のあり方を問い直すものでもあります。私たちは安易に「つながり」を求めがちです。むろん、社会学が明らかにしてきたように、価値とは孤立した個に本質的に備わるものではなく、他者とのつながりから生まれるものです。しかし、学生たちの論文が示唆しているのは、逆説的ではありますが、「価値のある」つながりを可能にしている土台には、つながっていないことが内包する「無価値さ」への尊重があるという事実です。すべての存在が効率的なネットワークに接続され、何かの役に立つ価値を生むことを強制されれば、私たちの関係性は息苦しく、痩せ細ったものになってしまいます。そっとしておくこと、評価しないこと、そこに在ることをただ認めること。そうした一見すると「無価値」に見える領域が手間暇かけて守られているからこそ、私たちは他者と関わり、そのなかで固有の分かちがたいつながりを立ち上げていくことができるのです。
ここに、社会学的な記述のもつ大きな意義があるように思います。それは、狭い専門分野のなかで厳密な正解を競いあうこととは無縁のものです。効率性やわかりやすさの名の下で見過ごされがちな、時としてきれい事では済まない関わりあい―ケアもまたその例外ではありません―を言葉にすることで、私たちが生きるこの世界を、少しでも風通しの良い、生きるに値する場所へと組み直していくための場を開くこと。その営みのひとつとして、社会学もまたあるのではないでしょうか。
最後に、卒業論文の作成にあたり、調査に協力してくださったすべての方々に深く感謝いたします。社会学の調査は、良くも悪くも、生活の場、ケアの網の目に踏み込むことがともないます。にもかかわらず、学生たちの未熟な問いかけに耳を傾け、時には学生たち自身をケアしてくださった方々の寛容さがなければ、本論集は成立しませんでした。ご協力いただいたみなさまが学生たちに向けてくださった言葉や眼差しは、単なるデータではなく、これからの社会を担う彼/彼女たちにとって、他者とともに考え、ともに生きることの意味を問う、何よりの教えとなりました。この場を借りて、改めて心より御礼申し上げます。
こうして、今年度の卒論も、「驚き」に始まり「驚き」に終わりました。社会学は、どこまでも問い続けることによって、私たちをどこまでも豊かにしてくれる学問です。本論集が、傷つきやすい現代社会のなかで、日常のケアへの新たな気づきと、良き驚きを創り出してくれることを願っています。