『アジア遊学 ジャカルタのいまを読む』No.90(勉誠出版、2006年)所収、伊藤嘉高「アーバン・インボリューション」71-4頁。
拙論では、ジャカルタを舞台にしたアジア・メガシティの展開について、「アーバン・インボリューション」をキー概念として読み解いています。
本書では、経済発展の象徴であるグローバル化都市ジャカルタの現在が、裏路地の庶民生活や、現代ジャカルタを代表する音楽・文学などを参考にして明らかにされています。
冒頭抜粋
ジャカルタをはじめとするアジア社会の六十~八十年代の都市化は、かねてより「アーバン・インボリューション」の一形態と見なされてきた。「インボリューション」とは、字義通りに捉えれば、「構造パタンが複雑化の度合いを強め同じものが増え続けるばかりで、新たなエボリューションのステージには至らないこと」を指す。すなわち、インフォーマルな都市経済パタンが、建造物、交通輸送、産業、就業の近代化をもたらすことなく、ただ複雑化し続けたということである。こうした事態は、「開発無き都市化」とも形容されてきた(実際に経済部門でみると、インドネシアの都市人口の就業構造はこの間ほとんど変わっていない)。
むろん、そうした事態は何も負の側面ばかりではない。インボリューションの正の側面を浮かび上がらせたのがクリフォード・ギアツである。ギアツは、ジャワの農村を舞台に、合理的な経済的利益の追求よりも「貧困の共有」や共同体の互酬性や弱者救済の規範が優先されることを見た。つまりは、水田耕作は社会を根本的にイノベートしなくても労働人口を大幅に増やすことができ、労働力を増やすほど生産力が上がり、また相互扶助の慣行が成立して労働機会や分配の細分化を許容するので、多くの人を養える、というわけだ。
そして、このギアツの定式化はジャカルタの都市社会にもあてはまる。先に見たように、アーバン・インボリューションとは、経済の根本的な仕組みが変わらないまま都市人口がどこまでも膨らんでしまう現象を指しているが、そこでは、親族と同郷のネットワークを再組織しながら、その線をたどって農村から都市へと人が移動していき、都市の側では仕事と分け前を極限まで細分化してこれを受け入れてきたのである。つまりは「貧困の共有」である(今日のジャカルタのカンポンでも、多くは自らの居住するカンポンから収入を得ており、居住者にとってのカンポンは生産と消費の場となってきた)。
他方で、こうした「貧困の共有」、スタグネーション、低開発という現実から目を逸らすかのように、首座都市ジャカルタは、物質的な都市化というよりは、文化的な都市化を経て、ナショナル・アイデンティティ、「想像の共同体」の「模範的中心」として象徴的に構築されてきた。いや、ポストコロニアル体制下のネーション・ビルディングには必然的に象徴的表象による統一が求められたのである(ムルデカ広場の独立記念塔(Monas)を見よ)。こうした「バーチャルなアーバニズム」は、インドネシアが第三世界新興国のリーダーとして不足無き統一国家として立ち現われるために、つまりは、スクオッターやカンポンからなる首都ジャカルタの広大なスプロールという厳然たる現実を取り繕うのに不可欠な様式であったのだ。これを指して、ピーター・ナスはジャカルタを「象徴に溢れた都市」と呼んだのだ。そして、当時生まれたミドルクラスも、確たる物質的基盤、富の蓄積というよりは文化的シンボルに支えられてのものであった。
歴史を遡ってみれば、かつてのインドネシア(ヌサンタラ)にはアーバニズムの基盤が存在しなかった。ヌサンタラの中心には……