伊藤嘉高「アクターネットワーク理論と記述的社会学の復権」『現代思想』2023年3月号掲載

私がブリュノ・ラトゥールの議論を本格的に追いかけるようになったのは、ごく最近のことである。その最初のきっかけは、最初の就職先であった医学部の医師たちとの会話である。彼/彼女らに社会学の議論を紹介すると、面白いかどうか以前に、まずもって「それはエビデンスがあるのか。それは科学なのか」を問いかけてきたのだ。

医学部でラトゥールを思い出す

それまであまり真面目に考えることなく、「生きられた世界がある!」などと言って済ませてきた私は、ハードサイエンスの世界の手厳しさを前にして、すっかりたじろいでしまった。

そこで、思い出したのがラトゥールの議論だった。私の専門は地域社会学で、大学院生時代にジョン・アーリの仕事を追いかけるなかで、ジョン・ローを経由してラトゥールの議論に接していたのである。

その当時、英国のAmazonでラトゥールの『社会的なものを組み直す』(Reassembling the Social)が社会学関連書籍の売り上げランキング1位になっていた。ただ、当時はそこまで関心はなかったので、必要なところを拾い読みするだけにとどまっていた。

しかし、医学部での生活が続くなかで、次第に「今こそラトゥールに向き合うべきではないか!」と考えるようになっていった。ラトゥールは、「自然」科学と「社会」科学について、「どちらもあり」ではなく「どちらでもない」道を切り開いているからだ(反科学に陥ることなく!)。

そうしたなかで、『社会的なものを組み直す』の翻訳にも取り組み始め(2017年頃)、いろいろな方に助けられて、同書の邦訳書は2019年に出版され、先日7刷目を数えるに至り、いくつかの論文や本も書くようになった。

本論文の目的

というわけで、ラトゥールに対する私の関心はかなり絞られていて、それは「科学としての社会学」を実践する上でどれだけ役に立つのかというものだ(しかし、それはラトゥールの議論の核心のひとつをなしていると思う)。

そこで、今回刊行された『現代思想』のラトゥール特集号(2023年3月号)にも、あくまで上記の関心から「アクターネットワーク理論と記述的社会学の復権」と題する稿を寄せた(本記事の最後で冒頭部分を紹介する)。

この稿は、今年度の学部3年のゼミで『社会的なものを組み直す』を読んでもポイントをつかみ切れなかった学生に向けて書いている。『社会的なものを組み直す』で十分に記述されていないラトゥールの主要な論点を網羅しながら、社会学にとってラトゥール流のANTが有する意義を明らかにしたつもりである(記号論にかかわる論点については別稿で扱っているので、割愛した)。

※なお、本稿は、草稿の段階で栗原亘さん(栗原さんも本特集に寄稿)に読んでいただき、読みにくいところ、分かりづらいところを10か所以上にわたってご指摘いただきました。

書誌情報

  • 伊藤嘉高(2023)「アクターネットワーク理論と記述的社会学の復権」『現代思想』51(3): 242-253.

他の論考もおもしろいものばかり!

最初に述べたように、私は新参者で、限られた関心から読み込んできたので、今回の特集に掲載されている他の論考をとてもおもしろく読んだ(それでも、「あの人の論考も読みたかった」という思いもある。拙稿の注で触れてみようとしたが、紙幅ギリギリに収めるために、いくつかは削らざるを得なかった)。改めて他の論考の感想も記していきたい(以下のtweetにぶらさげます)。

目次

【翻訳】
地球に住む(抄) / B・ラトゥール+N・トリュオング(聞き手)/池田信虎+上野隆弘訳
ブリュノ・ラトゥール──近代の妄想 ブリュノ・ラトゥールの哲学的遺産 / G・ハーマン/飯盛元章訳

【肖像】
ラトゥールとは誰か──総説 / 福島真人 
媒介子・フラット・ポストモダン――ラトゥールとフランス哲学 / 檜垣立哉
現代のエコロジー危機とブルーノ・ラトゥール / 村澤真保呂 
ノンモダン・ノーマンズランド / 久保明教

【軌跡】
ラトゥールの戦争――存在の政治性と「政治を不可能にする」意志について / 田中祐理子
フェティッシュ・フェティシズム・ファクティッシュ / 佐々木雄大 
『存在様態探求』に照らして呪術の実践を考える / 春日直樹
ラトゥールの『地球に降り立つ』を読む――「テレストリアル」の科学と特異なるものの多様体 / 近藤和敬
「地球への私たちの帰属を再物質化せよ」――ブルーノ・ラトゥールの警告 / 川村久美子
テレストリアルたちのパンデミック / 浜田明範

【共鳴】
「とんでもなくもつれあっているのに全然違うし」――フェミニストにして動的協働体、ブリュノ・ハラウェイ / 逆卷しとね 
ミシェル・セールから見るブリュノ・ラトゥール――科学的精神からハイブリッドへ / 縣由衣子
タルドのモナド、ラトゥールのプラズマ――アクター・ネットワークの外部に残るもの / 中倉智徳
非ネットワーク的外部へ――ラトゥール、ホワイトヘッド、ハーマンから、破壊の形而上学へ / 飯盛元章
〈媒介〉が開く知の光景――ラトゥールと田辺哲学と現象学の交叉点 / 田口茂 
ラトゥールの〈形而上学〉――アクターネットワーク理論と社会システム論 / 大黒岳彦

【展開】
一介のアリ(ant)であり続けることの意味と意義――運動体としてのアクターネットワーク理論の現在とこれから / 栗原亘
生命の薄膜――ラトゥールとマルチスピーシーズ人類学 / 奥野克巳
アクターネットワーク理論と記述的社会学の復権 / 伊藤嘉高
何とも言えぬ何かの群れに囲繞される(こともある)私たち――プラズマ、無関係、妖怪、怪奇的自然、幽霊、ぞっとするもの、エクトプラズム、タンギー / 廣田龍平
書記技術のマテリアリズム――ブリュノ・ラトゥールのメディア論のために / 岡澤康浩
アリのラトゥール化(再帰ループ一周分の遅れ) / 中井悠
応用領域会計学の世界から――ラトゥールを偲ぶ / 堀口真司

論文冒頭

ブリュノ・ラトゥールはアクターネットワーク理論(ANT)の旗手の一人として知られる。本稿に与えられたテーマは、ラトゥール流のANTが社会学の実践に対して有するインパクトとポテンシャルとを理論的に明らかにすることである。

ANTをいち早く受容したのが英国社会学である。The Sociological Review誌の二〇〇八年十一月号の特集「英国社会学の歴史を銘刻する」の巻頭論文では、ANTの展開を踏まえて、以下のように二十一世紀社会学の方向性が語られている。

社会学史を紐解くことで以下のような問いも引き起こされる。つまり、二十一世紀の社会的領域には、単に新たな「理論」が必要とされているのではなく、概念、問い、記録技術、説明形式を新たなかたちで結びつける新たな思考様式が必要とされているのではないかという問いである。二十世紀的な社会学的因果分析のスタイルが今や危機に瀕しており、その代わりに「記述的」なスタイルの社会学の復権を求めるべきだという挑発を詳しく検討することが有益であろう。この社会学は、表面に留まることに満足し、表面的な現象をその根底をなす基本法則からの派生物の地位に還元することなく、幅広い方法を用いて現象のばらつきを記録することで、あくまで表面的な現象に与することに満足する社会学となるだろう。

(Osborne, Rose and Savage 2008: 530)

ちなみに、同論文では、ジョン・アーリを嚆矢とするモビリティ研究もまた二十一世紀英国社会学の主潮の一つとして挙げられているが、実のところ、ANTはモビリティ研究の理論的源泉のひとつでもある(アーリ 2015: 第2章、吉原 2022)。いずれにせよ、二十一世紀の英国社会学にとってANTは決定的に重要な位置を占めるようになっている。

ひるがえって、日本におけるANTの受容に目を向けてみるとどうだろうか。文化人類学における受容は早くから進んだ一方で、社会学では長らく科学社会学の枠内での議論に留まっていた(代表的な研究として、松本 2009)。地域社会学(1)や観光社会学、環境社会学における例外を除けば、社会学の方法そのものに対するANTのポテンシャルに意識が向けられることはなかった(2)。 では、なぜ、「記述的」なスタイルの社会学の回復を求めるべきなのだろうか。まずは一般的な理解を確認しよう……

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