「地域共同性の現代的位相と地域住民組織―仙台市域の町内社会」『ヘスティアとクリオ』1号掲載

伊藤嘉高, 2005, 「地域共同性の現代的位相と地域住民組織―仙台市域の町内社会」『ヘスティアとクリオ』1: pp.58-83.

要旨

これまで社会学において町内会の現在性が論じられる際、その認識は多分に都市化=近代化に沿ったものであった。町内会が近代的行政の補完機能を果すなかで、「町内」なる〈地域〉空間が一つの「社会」として捉えられ、それを制度的に表象/代表(represent)するものと措定されてきたのに符節を合わせて、社会学は町内を一つの「コミュニティ」として、均質空間として描いてきたのである。この地域の一元性に異を唱えたのが、生活論の立場であるといえるが、この議論もまたハイデガーの土地と居住の議論に依拠したものであり、今日の「場所の社会学」が問題としている「土地」から「景観」への空間編成の変転に配視したものではない。すなわち、ポスト都市化=近代化のなかで、〈地域〉は空間的にも、言説的にもヒト、モノ、カネ、イメージの移動により差異化され多層化したものになっているのである(場所性の問題)。今後、生活論は、このポスト都市化=近代化の動向を踏まえ展開される必要がある。

本稿では、如上の事態に配視しながら、仙台市の町内社会の組織化のありようを、執筆者らが行なった町内会調査などの分析を通じて明らかにするとともに、今日の町内会は依然として行政的公共性の下支えによって近代的に「地域社会」を表象/代表しており、そのために〈地域〉の今日的共同性、すなわち「社交性」を包摂するのが困難になっている可能性を指摘して、その結論とする。

冒頭抜粋

これまで町内会等の地域住民組織の現在的性格については、社会学、政治学、行政学といった学問分野においてさまざまに規定されてきた。地域社会学における整理(吉原 1980, 2000; 藤田 1982; 鳥越 1994)に従えば、それは大きく近代化論と文化型論、そして生活(レーベン)論に分けられる。

第一の近代化論の立場では、町内会は封建遺制とされ、近代に逆行するものとして批判される。近代的地方自治制からすれば町内会はその枠外にあるという認識がこの立場の根底にあると推測される1が、近代的自治自体、西洋社会の政治社会的背景の下で構成されてきたレトリカルな公/私(public/private)の区分に依拠したものであることを、まずは指摘しておく必要があろう2

第二の文化型論の立場では、今日なお「近代化」とともに「前近代」的な町内会が全国的に存続している事実に着目し、一つの文化として「集団原理として現実に生きて働いている」と主張するものである。文化型論は、近代化論が見逃していた「共同の契機」を浮き彫りにした点が評価されるものの、近代/反近代の二項対立に依然として縛られており、静態的な伝統概念に埋没することになった。

第三の生活論は、90年代以降注目されてきた立場であり、論者によりその論調もさまざまであるために「生活論」と一括りにできるかどうかは怪しいが、ともかくも、近代/反近代の二項対立の影に隠れていたコミューナルな地平(共同性)に着目するという点で共通している。

たとえば、越智(1990)は、町内会の原理を「親睦と分担」による循環性に求め、その循環性がボランタリー・アクションを発現させているとし、鳥越(1994)は、地域住民の主体性を住民組織の「オヤコの原理」に求め、さらに吉原(2000)は、「伸縮自在な縁」というかたちで従来の地縁概念を捉えなおすことで、これまでのコミュニティ/アソシエーション二分法を融解させている。

さて、第三の立場は地域組織化の「基層」を明らかにするものであったが、こうした共同の契機(「住まうこと」)は、歴史的なリアリティはともあれ、現代社会においては一元的に本質規定できるものではない。第三の立場が依拠しているのは、「住まう」という言葉から明らかなとおり、ハイデガーの議論であるが(たとえば、越智(1980)を参照)、現代社会における居住と帰属の多層性(Clifford 1997=2002)を見据えるならば、真正の居住のもつ唯一の形態が、ひとつの地平を有した大地や世界に根ざした生活のパタンであるなどとはいえない。現代的な居住形態には、さまざまな移動の形態が伴い、とりわけ消費との関係で、居住と帰属の関係は極めて流動的なものになっているのである(Urry 2000=近刊:第6章)。以下本稿で論じるように、この動態は〈地域〉なるものの脱「社会」化につながるものである……

この記事のタグ