2016年7月29日に、第65回東北公衆衛生学会が山形にて開催される(所属講座が事務局となり、村上正泰教授が学会長を務める)。特別講演の講師は政策大学院大学の島崎謙治教授であり、その近著が、『医療政策を問いなおす―国民皆保険の将来』(ちくま新書、2015年)である。医療政策にそれほど詳しくない医療関係者や一般市民を対象に、「国民皆保険の堅持」に焦点を当てて、現在までの医療政策の歴史と医療制度を概説するとともに、将来の医療政策を考える手がかりを与えてくれている。
国民皆保険の堅持=形骸化!?
今日、TPPなどを背景とした医療の市場化、ネオリベラル化への圧力が強まるなか、「国民皆保険制度の堅持」が訴えられている。しかし、本書でまず示唆されるのは、単に国民皆保険の制度を維持するだけでは、実質としての国民皆保険が堅持されるとは限らないことである。
というのも、国民皆保険の成立過程を振り返ると、国民全員が公的医療保険でカバーされるという国民皆保険が達成されたのは1961年である一方、すべての国民が必要に応じて適切な医療を受けられるようになるまで(=「真の意味」での国民皆保険の達成)には、10年の成熟期間を要したからだ。つまり、その間に、給付制限(同一疾病の給付期間上限3年)が撤廃され、給付率が引き上げられ(5割→7割)、高額療養費制度が導入され、医療提供体制が大幅に拡充されたのである。
こうした皆保険を成立させた要件として本書で掲げられているのは、経済成長、連帯意識、政治的リーダーシップ、制度設計・管理者、基礎的行財政の環境であり、今日ではそれらの条件が失われつつある。したがって、「『国民皆保険制度の堅持』という旗は掲げたまま、給付範囲や給付率の縮減、地域医療の崩壊が進み、国民皆保険が形骸化する」危険があるのだ(p.24)。
そこで、国民皆保険を真に堅持するためには、医療提供体制と医療保険制度にさまざまな改革・改善が求められることになる。本書では、そうした改革・改善について、極端な立場から極論を煽り立てることなく、複眼的な議論を展開することで、将来の医療政策を考える手がかりを与えてくれている。
国民皆保険とナショナリズムとネオリベラリズム
本書の議論を私なりの視点で紹介するために、話題をいったん変えよう。一部界隈では、ナショナリズム批判が一定の力を有しているが、ナショナリズムと国民皆保険制度は密接に結びついてる。国民健康保険制度の創始は日中戦争のさなかであり(皇国民族の増強!)、戦後の国民皆保険に向けた動きも、岸内閣の福祉国家ナショナリズムを抜きには語れない。
こうした国民皆保険(national insurance system)は、「同じようなリスクを抱える人びとが、その損失を回避するために加入する」民間の保険制度とは大きく異なる。たとえば、自動車保険の保険料設定は、過去の事故歴などによって細かく等級化されているし、民間の医療保険も加入者の健康状態によって細分化される。ところが、国民皆保険制度の場合は、所得水準や健康リスクが異なる見知らぬ人びと同士が、「同じ国民である」という理由によって、支え合う仕組みになっている。
社会保障制度は、個人で保険料を払えば、保険数理で計算される額に等しい給付金を払ってもらえるという本来の意味の保険プログラムとどんな意味でも似ていない。……社会保障制度を租税制度として見るならば、これを受け入れる人は誰もいない。またこれを給付プログラムとして考えてみても、賛成する人は一人もいない。(M・フリードマン&R・フリードマン『選択の自由―自立社会への挑戦』p.252, 254)
したがって、ナショナリズムを一面的に批判し、他方でネオリベラリズムに抗することができなければ、国民皆保険制度を支える連帯の基盤が失われてしまう(見知らぬ国民同士が、あるいは見知らぬ国民同士だけで支え合う理由がなくなる)。しかし、ナショナリズム批判を展開する者は、現実の国民皆保険制度までも批判したいわけではないだろう(ちなみに、3か月以上の在留外国人は国保に加入することになっている)。
しかし、「懸命に仕事をして、健康に気を遣いながら生活している人間が、なぜ、健康に無頓着で、自堕落な生活を送っている人間の医療費の肩代わりをしなければならないのだ!」といった批判も強まってきている。その先にあるのは医療保険の民営化であり、一面的なナショナリズム批判は、そうした動きに手を貸すだけである。
もっと話を広げれば、国内保護政策を訴えるナショナリズムに対する知識人層による「上から目線の」批判(さらには、普遍的ヒューマニズムによって新たな政治の可能性を開こうというユートピア的提案)は、グローバル経済の恩恵に与れない多くの人びとの反感を呼び、逆にナショナリズムをファシズムへと激化させている。
しかし、以下に見るように、実際のところ、私たちのほとんどは「狭隘な」ナショナリズムによってのみ(=ただ同じ日本人だからという理由だけで)連帯しようとしているのでもなければ、「自己決定=自己責任に従う強い個人」からなる市場の論理によってリスクをヘッジしたいと考えているのでもない。ユートピア的理想は抱きつつも、やはり、現実的な議論が必要だ。
社会保険方式の維持が重要
本書の議論に戻ろう。国民皆保険と一口に言っても、その運用には、社会保険方式と税方式の二通りがある。そして、日本は社会保険方式であり、つまりは、加入者が保険料を拠出し、それに応じて給付が行われている。そして、本書は、以下の理由により、社会保険方式を基本に据えるべきだと論じる。
第一に、自由社会経済との整合性である。私たちが生きる自由経済社会は、個人の自由に高い価値を置く社会でありながらも(自由権の保障)、他方で結果の平等に重きを置く社会権も保証されている。両者はもちろん衝突するが、大切なことは、「この衝突を最小限にとどめる〔ために〕『結果の平等』のみを主張するのではなく、社会保障の制度設計において可能な限り社会経済の基本原則と調和させることが必要」(p.208、強調は引用者)である。そこで、「自立・自助」の要素を持つ社会保険の意義が強調される。
第二に、給付と負担の規律性である。人は誰でも「負担は少なく給付は多い」ことを望む。しかし、そうしたシステムは永続せず、当事者意識を持って、給付と負担の水準を決めることが重要である。その点、社会保険方式が優位に立つ。というのも、
〔社会保険方式では〕国家と個人が直接向き合うのではなくその間に多元的な中間集団(保険者)が決まり、給付と負担の水準が決まり、給付と負担の水準の合意を当事者自治に委ねることにより自律的なガバナンス機能を発揮することが期待できる。一方、税方式ではこのような規律が働きにくい。給付と負担が結びついていないため、国に対し給付の拡大を求めるという一方的な圧力となるからであり、時々の政治状況に左右されやすい。(p.209)
第三に挙げられるのが、税方式に比べて社会保険方式の方が権利性や普遍性が相対的に強いことである。税方式では、税収規模に応じて全体の枠が決まり、疾病の度合い等で優先順位を付けざるを得ないという制約がつきまとう。よって、税方式を採用している国では例外なく「長い待機リスト問題」を抱えている。
こうして、社会保険方式の優位が説かれるのだが、ところが、今日では、高齢化を背景に設立された後期高齢者医療制度に多額の公費が投入され(現在は全体の5割程度)ており、後期高齢者の保険料は1割程度に過ぎない。保険料の租税代替化が進んでいるのだ。
そして、残る4割は、各保険者からの支援金である。しかし、「社会保険なのだから所得の高い人から取るのが当然だという発想で対応すると、そうした者の公的医療保険制度(国民皆保険)に対する内在的支持を失わせかねない」。やはり、「保険料と保険給付の対応関係(対価性)を著しく損なうことは適当ではない」のだ(p.235、強調は引用者)。
以上の点から、本書では、高齢者の保険料と医療費との乖離が大きすぎるとして、公的年金等控除の最低保障額を給与所得控除と合わせることとともに、保険料軽減の特例措置(応益割の9割軽減)について、速やかに国民健康保険並に引き下げるべきであると主張される。
最後にネオリベラリズムの問題に戻れば、医療の市場化(グローバル化)を進めようとする圧力に対して、狭隘なナショナリズムに陥ることなく人びとの連帯意識を維持するためには、ナショナルなアイデンティティを有しながらも、それを唯一至上のものとしない自由経済を生きるアイデンティティの複数性を担保することが必要であると考える。したがって、自由と平等を調和させようとする改革は不可欠であり、本書はそのための手がかりをさまざまに与えてくれている。
目次
序章 問題の所在
第1章 日本の国民皆保険の構造と意義
第2章 歴史から得られる教訓と示唆
第3章 近未来の人口構造の変容
第4章 人口構造の変容が医療制度に及ぼす影響
第5章 医療政策の理念・課題・手法
第6章 医療提供体制をめぐる課題と展望
第7章 医療保険制度をめぐる政策選択
終章 結論と課題
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