窓ガラスたちによる統治~西川純司『窓の環境史』ご恵送御礼

窓ガラスは透明な存在だ。窓ガラスの向こう側の世界をありのままに見せてくれる。しかし、本書『窓の環境史』が描き出しているのは、そんな窓ガラスが、公衆衛生などの実践のなかで人間と非人間の関係を組み直し、人間と非人間が織りなす世界、つまりは、生の秩序化(統治性)のありようを変えてきたことだ。

発見装置としての生権力・統治性概念

ミシェル・フーコーは、公衆衛生を、環境(milieu)への介入によって人口を管理しようとする生権力の一つとして位置づけた。フーコーにとっての環境(milieu)は、受動的な自然環境を指すのではなく、生をとりまき、生と連関するあらゆるものを指す。環境への介入によって、生は人口として主体化=従属化され管理されるのである。

そして、フーコーの議論では「人間の生がその物質的な要素との関係において把握されていた」(p.59)が、その後の研究では、公衆衛生の研究も含め、人口と物質性の関係については十分な議論がなされてこなかった。

しかし、本書第1章が達意に整理しているように、ポスト・フーコー派の統治性研究、マルチスピーシーズの民族誌、地権力論、近年の環境史が、アクターネットワーク理論の知見を取り込むことで、生権力や統治性の概念を、非人間との絡み合いのなかで問い直す方向へと展開させている。

権力関係に先立ってある技術やモノの本質が定まっているわけではない。何がエージェンシーを獲得するのかは局所的な実践のなかで決まる。したがって、たとえばある社会においては特定の作用をもたらしていた知や技術も、別の社会においてそのまま同じように働くというわけではない。あるいは、あるアクターが政治的なエージェンシーをもつようになるかどうかは時代や場所によって異なる。あくまで誰/何が人びとの生の環境を作り上げているのかを局所的な実践の中で経験的に確かめる必要がある。こうした分析なしにあるアクターにエージェンシーがあるとみなすことはできない。……以上からも、生権力や統治の概念は権力一般を説明する理論ではなく、分析のための方法論だという指摘もきわめて当たり前のことに聞こえてくるに違いない。

(『窓の環境史』p.88, 90)

つまり、生権力や統治性といった概念は、私たちの世界で権力が働く複雑なありようを説明してくれるものではなく、それぞれの世界で権力的なエージェンシーが分散的に作動する際に人間以外のアクターが果たす役割に目を向け、その変容の可能性に目を向けることを促すものなのである。

こうした通俗的なフーコー理解に反する見方は、以下に見るブリュノ・ラトゥールの見解とも共通している(本書でも一部引用されている)。

この〔権力を実体化して社会的説明を行おうとすれば、自らが権力欲に取り憑かれてしまうという〕教訓が容易に忘れられるものであることは、大西洋対岸におけるミシェル・フーコーの運命に劇的に示されている。権力を構成するとても小さな要素を分析することに対してフーコー以上にこだわる者はおらず、フーコー以上に社会的説明に批判的な者もいなかった。しかし、フーコーが翻訳されるやいなや、フーコーは、無害な活動を含むありとあらゆる活動―狂気、博物学、性、管理など―の背後にある権力関係を「明らかにした」者になってしまった。このことからも、社会的説明の概念に対してどれだけのエネルギーをかけて戦うべきであるのかがわかる。フーコーという天才でさえ、そうした全面的転倒を防ぐことができなかったのだ。

(B・ラトゥール『社会的なものを組み直す』p.162)

「多孔的な住まい」による生の組み立て

本書第2章以降では、日光療法、都市計画、健康住宅、書斎などをテーマにして、個別具体的な記述が展開されている。

たとえば、20世紀初頭の結核予防のための都市計画は、環境への介入によって成り立っており、「警察による感染者の隔離や収容のように権力を前面に押し出す必要がなく、また衛生教育や身体の規律訓練の内面化を要請する必要もない。つまり、法的な取り締まりや身体の規律化といったわかりやすい介入なしに、人びとの生を管理することが可能になった」(p.294)。

ただし、この環境は、計画立案者の理念に素直に従う無抵抗の存在ではない。致命的なエージェンシーを有する結核菌に対抗するためには、日光や紫外線、空気などの諸存在の循環と流通(「多孔的な住まい」)が必要となる。

そして、それを可能にするためには、新たな住宅の間取りや設備が必要になり、そのなかのひとつとして(紫外線を透過させる/させない)ガラス窓という存在があったことが本書で描き出される。

こうしたさまざまな存在との連関/非連関を成り立たせる「多孔的な住まい」のなかで、私たちの生は組み立てられているのである。

普遍主義を超える「生の環境史」

したがって、自然の統治、もっと言えば、自然との共生は、さまざまな存在との競合や摩擦、調整の結果として可能になるものであって、そのありようは科学知によって一律に規定されるようなものではない。ここから西川が「生の環境史」と呼ぶ企てが構想される。

ここで忘れてはならないのは、誰/何をこの〔環境の〕諸要素とみなすのかは時代や社会によって異なるということである。ANTがそうであったように、方法論的には相対主義の立場に立ってはいるが、分析者が好き勝手に要素を決めてよいわけではない。生を成り立たせる要素は実践のなかで経験的に問われなければならないのである。その時代、その場所ではいかなる要素がエージェンシーをもち、いかなる形象が生命のあるものとして非生命と分節化されるのか。人間/動物、人間/自然、生命/非生命などの境界線がどのように引かれ、実在のものとなるのか。その境界線をめぐる実践は政治性を帯びざるを得ない。……「生の環境史」は、人間と自然の関係性がもつ多様なあり方に目を向けようとする試みである。

(『窓の環境史』p.299-300)

以上みてきたように、「生の環境史」は、人間と非人間、社会と自然、生命と非生命の間に境界線を引くという行為が「政治的なもの」であることを明らかにしている。ここでの「政治的なもの」とは、境界線を引くことが、支配をめぐる争いではなく、諸存在の交渉と調整の産物であることを指している(コスモポリティクス)。

その意味で、「生の環境史」は、人間と非人間(環境)の分離に基づく普遍主義的な政治を訴える人新世やコスモポリタニズムの議論の問題点をあらわにするとともに、そのオルタナティブに目を向けさせてくれるものである。

書誌情報

人びとは自身の生をケアするために、環境に依存して生きている――。そして住まいという場こそ、人間/非人間をめぐるポリティクスをとらえる磁場となるのだ。人びとと医療をめぐる忘れ去られた歴史がここにひらかれる。人新世時代にとらえなおす、エコロジーをめぐる人文学。

序章 人新世の歴史を呼び覚ます
1 人新世の歴史と生の歴史
2 近代日本の公衆衛生と生政治

第1章 近代日本の公衆衛生研究をひらく 統治性研究の射程
1 制度・規律・統治からみる公衆衛生
2 人間ならざるものたちのざわめき
3 エコロジーのなかに人びとの生を問う
4 統治性研究の新たな展開

第2章 曝される身体 サナトリウムにおける日光療法
1 医学と建築と化学が交差するところ
2 自然のなかのサナトリウム
3 日光療法――正木不如丘の試み
4 日光療法の問題
5 分子の世界における抵抗――紫外線・煤煙・ガラス
6 多元的な世界で生きる

第3章 日光の供給 国家なき統治としての都市計画
1 排除から包摂へ
2 社会的なものの浮上と都市計画
3 「暗さ」の発見
4 日光の供給
5 都市と統治
6 自然の保健力と都市計画の技法
7 大地のなかの都市――社会と自然を越えて

第4章 空気の灌漑 健康住宅の試み
1 統治の技法としての健康住宅
2 環境工学的知識の生産
3 自然の動員
4 健康住宅の拡大
5 多孔的な住まい――生命と非生命を越えて

第5章 住まいのエコロジー ケアの実践と人間ならざるもの
1 家族と統治
2 自宅療養とケア
3 ガラス・テクノロジー
4 家庭の統治とメンテナンス――定期利用(サブスクライブ)する主婦
5 住まいというエコロジー

第6章 健全なる精神 書斎と精神衛生
1 大正デモクラシーの物質性
2 精神上の工場
3 健全なる精神
4 光の均質化
5 精神の統治

終章 生の環境史に向けて
1 人類と感染症――現代への展望
2 エコロジカルな住まい
3 自然の統治
4 生の環境史に向けて

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