前の記事の通り、ジョン・アーリ『グローバルな複雑性』(Global Complexity)が法政大学出版局より刊行された(吉原直樹監訳、伊藤嘉高・板倉有紀訳)。私は、全7章のうち、はしがき、第2~7章を担当している。
本書は、20世紀末以降のグローバル化の動きを「単純化」して批判/擁護するのではなく、その複雑な「生」のダイナミズムをつかみ取る方法を探究している。
翻訳自体は、私が山形大学に赴任する前の仕事であり、最終的な訳稿には吉原先生の手が入っている。私としては読みやすく訳したつもりだが、そもそもの原文が難解であるため、ここで、ひとつの読み筋を提示してみたい。
(Amazon.comの原書レビューでは、好意的なものが多い一方で、「600ページかけるべき内容を150ページで要約したような感じ。そして、この150ページはこれまで読んだなかで最もきつい部類に当たる」とも評されている。)
「グローバル化論」批判
本作でアーリは、従来の思考様式に囚われた「グローバル化論」を批判し、複雑性のメタファーを用いて、脱組織資本主義の「システミックで動的な性格の委細」(p.7)を明らかにしようとしている。
「グローバル化」について論じることで、既存の社会学の論点は変容することになる。たとえば、かたや社会構造、かたやエージェンシーのどちらが相対的に重要か、といった論点……、人間主体と物理的客体という強固な二分法はもちろん、物理科学と社会科学とのあいだの強固な二分法もまた融解することになる。……また、グローバルなるものの研究を、それとは無関係に進みうる既存の社会学的な分析に「付け足す」ことのできる余分な次元や領分に過ぎないと見なすべきではない。「社会学」はもはや、所与の境界をもった「組織的な」資本主義社会の研究に焦点を当てるような、一貫性を有した一定の言説体系として自らを維持することはできなくなっている。社会学は不可逆(イリバーシブル)に変わりゆくものなのだ。(5-6頁)
アーリによれば、グローバル化を肯定する者も否定する者も、その多くは「領域」(リージョン)のメタファーに囚われている。つまり、「国民社会の境界を侵食するボーダレスなグローバル化」といったように、グローバル化対国民社会といった構図を描き、空間的、地理的制約を線形的に乗り越える普遍的なグローバル化を称揚したり、逆に批判したりしているのである。
ただし、ある面において、その種の分析は正当なものであろう(たとえば、非関税障壁の撤廃までをも求めようとするTPPに対する批判)。しかし、多くの局面において、グローバル化は「一面的」なものではなく、さらに言えば、グローバルなものとナショナルなものは共振(共同構成)し合う関係にある(たとえば、グローバル化のなかでナショナルな文化がブランディングされ強化されるといったように)。こうした現象を「領域」のメタファーから読み解くことはできない。
本書は、多くのグローバル化分析がグローバルな創発特性をあまりに一元的で、そして、あまりに強力なものとして扱ってしまっているとの考えに立つ。グローバル化の分析は単純化されており、静態的かつ還元主義的である。このことは、「グローバル化」はXであるといったり、「グローバル化」がXするといったかたちで叙述する定式化にみることができる。(61頁)
領域、ネットワーク、流動体
そこで、アーリは科学社会学の科学技術社会論(STS)で展開されてきた「領域」、「ネットワーク」、「流動体」の空間パタンの区別に着目する。社会科学はこの区分を十分に認識してこなかった。本書では「貧血症」を取り上げてこの点を明らかにしているが、ここでは、もっと単純化して説明してみよう。
たとえば「言葉」である。言葉は、本来的に流動的であり、ひとつに固定されたり、安定したりするものではない。ところが、ひとつの「標準語(日本語)」として、日本という「領域」内で標準化・均質化が図られている。そして、それは、「不変の可動物」(ブルーノ・ラトゥールの概念。やわらかく訳せば「変わらずに動くもの」。あらゆる個人や集団に伝えられたり、複製されたりするが、しかし、その固定化された意味内容が変わることはない。ここでは、教科書など)による「ネットワーク」によって達成される。しかし、実際の言葉は、さまざまなネットワークを伝って流動するなかで、さまざまに変容している。
この概念装置を用いるならば、今日のグローバルな世界とは、ネットワークが既存の「領域」を超えて広がり、そのネットワークも単一のものではなく、さらには、多様な流動体がそのネットワークを流れ、時空間を超えて緊密に相互作用し合うようになっている世界である。
ちなみに、この見方は、デ・ランダの『非線形史の一千年』(なぜか邦訳がない!)、あるいはアンリ・ルフェーヴルの『空間の生産』に通じる見方である(「移動と係留の弁証法」)。
デ・ランダは、さまざまな物質のフロー、わけてもエネルギー、遺伝子、言語のフローの成り立ちとその成り行きとに関心を寄せている。中国史の幾世紀にわたってみられたように、そうしたフローが「ヒエラルキー型」の均質化(しっかりとした結合)によって支配されたところでは、爆発的、自己組織的な都市の発展は起こらなかった。……都市とは、相交わり合うさまざまなフローの交流の場である……デ・ランダは、これら〔身体、自己、都市、社会〕を、過去の一千年にわたって地球の地表に広まった無機物、遺伝子、病気、エネルギー、情報、言語といった、もっと基底をなすフローの単なる「束の間の硬化」としてみている……「グローバルな複雑性」を討究するなかで、同様の分析を、断続的に「束の間の硬化」を具現させる交合的で非線形的な「物質世界」のフローに対して展開することにしたい。(55頁)
いずれにせよ、こうしてネットワークと流動体を区別することで、マニュエル・カステルのネットワーク社会論(The Information Age 3部作)を批判的に発展させることができる。
カステルの議論では、「ネットワーク」概念があまりに多くの理論的な役割を負わされてしまっている。ほとんどすべての現象が「ネットワーク」というひとつの画一的なプリズムを通して考察されている。そして、この概念によって、ネットワーク化された現象の多様性が覆い隠されてしまっている。すなわち、マクドナルドのようなヒエラルキー状のネットワークから、ヘテラーキー状でまったくまとまりのない「路上抵抗運動」までがひとつにされ、空間的に隣接した日々顔を合わすネットワークから、想像上の「遠くの文化」をめぐって組み上げられるネットワークまでもがひとつにされてしまう。……さらには、まったく純粋な「社会的」ネットワークから、基本的には「物質的」に構造化されたネットワークまでもが、ひとつにされてしまうのだ。これらはすべてネットワークであるのだが、しかし、ネットワークの機能という点でみれば、一方と他方とではまったく異なったものである。(19頁)
具体的には、「グローバルな統合ネットワーク」と「グローバルな流動体」が区別される。グローバルな統合ネットワークは、「グローバル」企業に見られるように、「同じ『サービス』ないし『製品』がネットワーク全体に行き渡り、ほとんど同じ方法で届けられることを確実にしている。こうした製品は予想可能で計算可能なものであり、ルーチン化され、標準化されている」(87頁)。
これに対して、グローバルな流動体は、グローバルな旅行者、インターネット、金融、ブランド、自動車移動、グローバル・リスク、新しい社会運動などに見られるように、
ローカルな情報にもとづいて行動する人びとから生じるが、しかし、そこでのローカルな活動は、無数の反復を通して、いくつものグローバルな波動のなかで捉えられ、動かされ、表象され、市場化され、一般化され、しばしば、非常に離れた場所と人びとに対して影響を与える。ヒト、情報、モノ、カネ、イメージ、リスク、ネットワークの「粒子」は、さまざまな領域のなかを、そして、さまざまな領域を超えて動き、異種混交し、不均等で、予測不可能で、しばしば無計画の波動を形成している……そこに必然的な最終状態や最終目的をみることはできない。このことは、そうした流動体が自ら自身の挙動のコンテクストを時間とともに創り出していることを表しており、そのようなコンテクストによって「引き起こされる」ものとしてみられるものではない。これらのグローバルな流動体のシステムはある面で自己組織的であり、自ら境界を創り出して維持している。(92-3頁)
グローバルな創発
以上のような流動的な現象を読み解くために用意されるのが複雑性科学のメタファーである(ここで「ポストモダン云々」といった批判が聞こえてきそうだが、そもそも、社会学は物理学のメタファーを用いて展開してきたことを忘れてはならない)。本書でも、細かい数学的厳密性がグローバル化の諸現象に適用されているわけではない。本書を読み進めるに当たっては、複雑性概念の「思考パタン」さえ共有できれば問題ない。
具体的には、先に見たインターネットや自動車移動などといった、物理的関係と社会的関係のハイブリッドからなる「グローバルなシステム」が複雑適応系の散逸構造として捉え直される。散逸構造については、空高く浮かぶ鰯雲の秩序立った繰り返しパタンがその典型的な例である。鰯雲は離れてみると極めて秩序だって見えるものの、近づいてみると、結晶のような明確な秩序構造は見られない。一種の対流現象によって、個々の分子はまったく自由に運動(相互作用)しているのである。このように、ミクロ次元のカオス的な相互作用から、マクロ次元の秩序(「秩序の島」)が整然と立ち現れることを「創発」と呼ぶ。
人びとはローカルに知られうるものを拠り所として反復的に行為し、そこにシステムに対するグローバルなコントロールは存在しない。主体はそのローカルな環境に応じた振る舞いをみせるが、それぞれの主体はローカルな状況に対して適応ないし共進化する。しかし、各々の主体は「他の主体もまた適応している環境内で」適応ないし共進化するため、「ある主体における変化は、環境に対して影響を及ぼし、つまりは他の主体の成り行きに影響を及ぼすことになる」……現在の創発秩序は、「グローバル」なるものを集合的にパフォームするいくつもの相互依存的な組織を通じて構造化されたものである。それぞれの組織が共進化し、ギルバートが「マクロ・レベル〔グローバル・レベル〕の特性に『順応(オリエンテイト)』する能力」(Gilbert 1995: 151)と呼ぶものをみせている(120-2頁)
こうした無数の要素による共進化(適応)による自己組織化の結果、諸々のグローバルなシステムが、カオスの縁と呼ばれる、秩序と混沌のあいだの「秩序の島」に位置するようになっている(砂山のような自己組織化臨界)。各要素は一点に固定されているのでもなければ、無法状態へと瓦解しているのでもない。
また、そうしたカオスにおける振る舞いは非線形法則によって規定されているが、カオス方程式で記述されるシステムにはしばしば(秩序と無秩序を併存させた)ストレンジ・アトラクタが観察される。
ここでも難しく考える必要はない。まず、アトラクタについては、振り子運動を考えるとわかりやすい。振り子運動は、徐々に運動エネルギーが失われていく散逸系の運動であり、やがて固有の振幅の振動に吸い込まれ、特定の軌跡や点に落ち着く。この安定した状態をアトラクタという。
これに対して、カオスの場合のアトラクタはストレンジ・アトラクタであり、軌道が決して同じ点を通ることなくいつまでも続いていく。ただし、本書では(適切な用語法ではないかもしれないが)秩序と混沌のあいだにある「カオスの縁」で働くアトラクタを想定しているようだ。つまり、無数の要素が相互作用し合うなかで、平衡から遠く離れた諸々のグローバルなシステムにもアトラクタは存在しており、相互連関の関係にある秩序と無秩序を正のフィードバックによって引き込みつつ自己組織化を続けているのである。
これをアーリは「グローカル化」のアトラクタと読み替え、グローバル化(凝集)とローカル化(分散)の相互進展をさまざまに読み解く。「資本の文明化作用」(中枢性の弁証法)はもちろんのこと、ナオミ・クラインの『ブランドなんか、いらない』など数々の例証があるなかで、アーリが特に注目するのが「グローバルなスクリーン化」である。
このアトラクタの作動の一例として、オリンピックのようなグローバルなメガ・イベントがローカルな開催都市の創発を前提とするとともに、その創発を強化するようにみえることが挙げられる。こうした開催都市が選ばれるのは、その都市が、とりわけグローバルな度合いを強めるイベントの開催にふさわしいユニークでローカルな特徴とされるものを有していることにある。(130頁)
パフォーマティブなグローバル化
この事態は、グローバルなものを「パフォーマンス」として読み解くことで、いっそう明快になる。アーリが援用するのは、ジュディス・バトラーのパフォーマティビティ概念に依拠したフランクリンらの Global Nature, Global Culture の議論である。
バトラーは、パフォーマンスにとって反復の有する決定的な重要性を明らかにしている。構造は永久に、固定されることも与えられることもない。構造は、常に時間とともに働きかけられなければならない。そして、何かに(たとえばグローバルなるものとして)名を与えること自体が、ある程度、名付けられた当のものを生み出すことなのである。……グローバルなるものはそれ自体で「パフォームされ」、その外部のものに起因するものではなく、その外部の影響の原因とはならない……。グローバルなるものは、非常に多様なスケールないしレベルで動いている多数の領野にわたって「パフォームされ、想像され、営まれている」ものである。(149頁)
このパフォーマンスの中核をなすのがグローバル・メディアとグローバル・ツーリズムであり、そのなかで、ナショナリティの性格も変容し、「領土」がナショナルな自己規定の中心ではなくなってきている。「ナショナリティは、種差的なローカルな場所、シンボル、景観を通じて、すなわち、グローバルなビジネス、旅行、ブランド化の等高線におけるその文化の位置にとって中心をなす当のネーションのイコンを通じて構成される度合いを強めている」(130頁)。
あらゆる国民社会が福祉国家を脱し、脱領土化とスペクタクル化を強め、多かれ少なかれ〈帝国〉への歩を進めているが、その背後で無秩序の荒野を広げてており、「カオスの縁」で自己組織化したテロリズムがグローバルなネットワークのなかを流動体として姿形を変えながら蠢いている。アーリにしたがえば、ネグリとハートのいう〈帝国〉も、一つの実体ではなくグローバルな複合体であり、つまりは諸社会を不可逆に引き寄せるストレンジ・アトラクタなのであり、国民社会や超国家組織はそのなかの「秩序の島」なのである。
したがって、単一のグローバル・システムなる平衡系が存在するのではない。複雑系社会学が定位するグローバル・システムとは、数々の相互依存的で異種混淆的なネットワークと流動体からなるグローバルな複雑連関性を有した開放系なのである。この開放系は一つの平衡点に向かうこともなく、またその生物学的、社会的、物理的なプロセス間の関係を規定することは不可能であり、初期条件のわずかな変化に過剰に反応し、ある時点を越えるとシステムの振る舞いが予期せぬものになる(バタフライ効果)。「このグローバル・システムがオートポイエーティクな自己制作を通じて全体として組織されることを示す証左はない」(154頁)。
グローバルな場所の政治学に向けて
こうして、アーリは、「グローバルなもの」を一つの非平衡システムとして扱うのだが、ここで注意したいのは、この立場はかつての全体論(社会システム理論)とは異なるということだ。アーリの議論に対して、「現実に存在する支配や抑圧の事実を隠蔽するものだ」として論難する反グローバリズムの批判は正しくない。支配や抑圧の状況を客体的・一方的に批判するだけでは、ローカルな行為者の持つ潜在的な能力を見失い、「支配」の構図の再生産に与することになりかねない。グローバル複雑系において重要なのが常に構成要素間の相互作用であるということのもつ意味を十二分に考えてみる必要がある。
グローバルな「構造」があり、そのなかにローカルな「主体」があるのではない。グローバルとローカルは、複雑系のカオス的秩序の表裏を成すものなのである。この意味において、グローバル化とローカル化は一体的なものなのだ。したがって、社会生活の動的パタン化のためにグローバルな静態秩序が存在しないように、ローカルな静態秩序もまた存在しない。換言すれば、グローバル「社会」が存在しないように、自律的なローカル「社会」もまた存在しない。アーリが言うように、グローバルな「世界システム」やそれに対するローカルな「生活世界」などというのも存在しない(184頁)。
つまり、グローバル化に「抵抗」する他の「領域」が存在するのではなく、グローバル-ローカルのスペクトル上を動く創発的で不可逆的な「さまざまなプロセス」が存在するのだ。こうしたローカルなプロセスはスケイプとフローを通じて、観念、イメージ、ヒト、カネ、テクノロジーを動員して、時空間の圧縮を背景に他のローカルな文脈と連接する。つまり、各々のローカルな行為は反復を通じて、捉えられ、動かされ、表象され、市場化され、一般化され、しばしば非常に遠い場所と人びとに影響を与えるものとなる。
こうして、グローバルなスケイプとフローを通じて「場所」はもはや秩序化した「社会」ではなくなる。このなかで「ローカルななもの」も、「領域」ではなくパフォーマティブなものとして捉えられるようになる。つまり、場所とは、「多重チャンネルとして、つまり関連のあるネットワークとフローが集まり、合体し、連接し、分解する空間の集まり」(アーリ『社会を越える社会学』246頁)であり、独特なパフォーマティビティを有したものなのである。
さらに言えば、ド・セルトー流の場所把捉――動く諸要素が交錯することによって構成され、つまりは運動の総体によって分節化される――が新たなリアリティを獲得しつつある(『日常的実践のポイエティーク』)。このなかで、空間は「フラクタル空間」として脱スケール化し、共存的関係と媒介的関係の境界が揺らぎ、身体化されたものと遠隔されたものとの境界が揺らぎ、グローバルとローカルの境界が揺らぐ(デヴィッド・ハーヴェイ Spaces of Hope, pp.85-6)。
ローカルなアイデンティティは、自律的なものでも自己規定的なものでも本質的なものでもなく、実際には〈帝国〉諸機械の動力学に組み込まれたものなのだ。こうしてローカルな超越的外部という思考から脱却することで、今日の「グローバルな場所の政治学」とでも呼べよう地平が切り開かれる。個々の「社会」がグローバルな統合ネットワークを伝って場所を視覚的にパフォームするとともに、グローバルな流動体がその場所を身体的にパフォームし返す。9・11がその典型であった。批判理論もまた、「流れ」(フロー)のなかで進まなければならない。
書籍情報
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