今年度の3年次前期ゼミでは、ブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す―アクターネットワーク理論』とラトゥール&ウールガーの『ラボラトリー・ライフ』の輪読も行うことにしました。
『社会的なものを組み直す』は難しい?
『社会的なものを組み直す』は「これだけのことを言うのに、これだけの分量が必要なのか」と思いたくなる一方で、発表担当者とのプレゼミで1文1文の意味を確認していくと、言葉足らずのせいで学生が理解につまずくところが、一部あることに気づかされます。
これは学生のせいと言うよりは、ラトゥールが存在様態論の視点を序論から忍び込ませているせいです。たとえば、第I部の「はじめに」で次のような記述が出てきます。
ANTが主張するのは、一つの参照フレームを安定したままにしようとするよりも、むしろ不安定で移ろう参照フレーム同士の結びつきを記録する方法を見つけ出すことで、もっと堅固な関係をたどることができ、もっと多くのことを伝えてくれるパタンが発見できるということだ。
(『社会的なものを組み直す』p.48)
ここでの「参照フレーム同士の結びつき」とは、アクターがそれぞれに異なる視点、視座をもっているなかで共生を成り立たせている「翻訳」のことを指していると理解できますが、「もっと多くのことを伝えてくれるパタン」(あるいは、この少し前に出てくる「さらに一歩進んだ抽象」)は、科学なり法なり政治なりの「存在様態ごとの結びつきのパタン(言明の適切性条件)」を指しているように見えます(存在様態については訳注88、久保明教さんの『ブルーノ・ラトゥールの取説』、栗原亘さん編の共著書『アクターネットワーク理論入門』も参照してください)。
これらをいちいち解説しながら進めているので、学生の頭をいたずらに混乱させている面もあるかもしれません(最後まで読まないと分からない仕掛けになっているので、途中では分からなくてもOK!)。それでも、一人ひとりが真摯に考えてくれるので、「私もいい加減なことを言わないように、もっと勉強しないと!」と思わせてくれます。
さらに、とくに言葉遊びにならないように、一つひとつの記述について具体例を考えながら進めていくなかで、学生から思わぬ好例が挙がることが多々あり、大いに助けられています。
このように学生とともに成長できる機会を頂けている環境には、ありがたさしかありません。
ゼミ案内
新潟大学の社会学専攻では、自分の所属するゼミ(主ゼミ)以外のゼミにも参加することが推奨されています。私のゼミでも、以下のようなゼミ案内を出したところ、主ゼミの学生6名以外に5名の学生が参加してくれて、計11名でゼミを運営しています。
「私の行為は私が決めているのではない」―社会学の根底をなすこの発見は、今日の「なんでも自己責任にされる社会」に対する強力なカウンターであるはずだ。しかし他方でこの言明は、(a)「私が悪いんじゃない! ××のせいだ」と主観的に自己正当化・自己合理化する責任逃れのレトリックにもなりうる。あるいは、客観性を装って、(b)「あなたの行為は××が生み出したものにすぎないんだよ」といったかたちで、他者の行為のかけがえのなさを毀損するものにもなりうる。
(a)、(b)いずれの言明も、調査対象者が発したものであれば、社会学を学ぶ者は真摯に耳を傾ける必要がある。しかし、社会学を学ぶ者自身が声高に主張すべきことではない。私たちは、「うまいことを言った者勝ち」の言葉遊びに耽溺するのではなく、「私の行為を決めているのは誰・何なのか?」という問いに対して、あくまで科学的に取り組むべきだ。
この問いに対して、社会学はさまざまな調査や研究を進め、「答え」を出そうとしてきた。しかし、どうして社会学者が一つの答えを出せると考えるのか。そもそも、一人の人間に過ぎない者が答えを出すというのは不遜ではないか。「そうは思わない。答えを出すのが科学ではないのか」、あるいは、「そう思う。何やら上から目線で感じが悪い」と考えるだろうか。いずれの人にもこの科目を受講してもらいたい。
このゼミでは、「行為の責任の所在」に対して答えを出そうとしない社会学であるアクターネットワーク理論を学び、批判的に検討することで、それでも社会学が「他者との共生」に貢献する科学として、いかにして自己規定し、調査・研究を行えるのかをともに考えていく。アクターネットワーク理論の対象は、「人間」や「社会」にとどまらず、あらゆるものに広がる。