伊藤嘉高, 高橋強, 2006, 「マカオ地域社会と『場所』のポストコロニアル性 ―地域住民組織『街坊会』の発展史」『ヘスティアとクリオ』3: 76-97.
要旨
本稿が企図するのは、中国返還後のポストコロニアル・マカオにおける地域住民組織の位相を問うための基礎的分析である。マカオのポストコロニアル性の有する特異性はコロニアルなるものに対する両義性にある。すなわち、周縁とも中心とも想像できるマカオという場所に対して、コロニアル政庁が一つの集合的アイデンティティを付与することはなく、マカオ社会は、〈中心性と周縁性〉の間で交差する相矛盾した複雑な関係性のなかで自らを定位しようとしてきたのである。今日のポストコロニアル・マカオという「場所」の評価は、コロニアリズムと密接に絡み合っており、コロニアリズムの評価自体がマカオの差異を成立させる条件となっているのだ。
ここで示唆的なのが移行期のマカオ政庁による一連の文化遺産復興事業の推進である。移行期に入りマカオ政庁が急に都市的帰属心を高めるような政策を採り始めた理由は「一国両制」の内実を通して考えてみるとよくわかる。すなわち、マカオは、さまざまなアクターがさまざまな活動を営む「場」になっており、そこに中国国民国家としての領域的集合性を直に持ち込むと交差的なマカオ社会に深淵な裂開を生じさせることになりかねなかったのである。こうして、マカオの集合的アイデンティティは、一国両制によって国家構築や国民構築から分離して発展されることになったのだ。
本稿の焦点は、こうしたポストコロニアル状況において、地域住民組織、「街坊会」のポテンシャルを支配/生活の二分法を越えた次元で問うことにある。ところが本稿でみるように、「生活の共同」というグラスルーツの古層を有しながらも、街坊会は、文革の影響により親北京派組織として組織化され、中国共産党をバックにコロニアル状況下における政治的影響力を獲得してきた。実際のところ、中国共産党は、グラスルーツのレベルでは街坊会を通じて巧みに国民構築を進めてきたのである。そして、逆説的にも中国返還によって街坊会はその影響力を弱めている。というのも、移行期そして返還後の一国両制というポストコロニアル状況のなかで、マカオの市民社会は中国のネーション・ビルディングから距離をとりつつ成長してきたからである。
経済の急成長が続くマカオ社会において、「地域住民組織」としての街坊会の今後の可能性は、「五十年不変」のなかで、「橋」としてのマカオの場所性を認識し、中国共産党とマカオの市民社会とのいずれにも偏向することなく、グラスルーツのレベルで両者をしたたかに媒介できるかどうかにかかっているように思われる。我々は、地域におけるそうした日常的な集合的実践を問い求める必要がある。