伊藤嘉高, 2015, 「創発する場所」吉原直樹・堀田泉編『交響する空間と場所II』法政大学出版局, 83-120頁.
要旨
従来のコミュニティ論は、ノスタルジックな情感を刺激し、固定された「場所」へと人びとを「回帰」させ、不変の連帯を虚構する肯定弁証法にすぎない。それに対して、新たな都市「空間」は、あらゆる二分法的構造化(差異化)を超える「差異そのものによる生成」としての創発が見られ、差異や多様性のヘテロトピアこそが今日の都市の創発の条件であることを論じた。これまでのフィールドワークの知見を理論的に位置づけた。
冒頭抜粋
今日の資本の論理は、新自由主義イデオロギーのみならず、反規律と反ヒエラルキーを説くポストモダニストの主張をも味方につけている。すなわち、規律訓練によるヒエラルキー型、画一的身体管理を脱した多極分散型マネジメント、ネットワーク型水平的コミュニケーションによる創造性の獲得、さらには、差異化とハイブリッド化による生産性の向上と消費の拡大といった具合に、ポストモダニストが主張してきたような価値が資本の論理においても追求されているのだ。そして、国民国家の否定という局面で、新自由主義とポストモダニズムの両イデオロギーは奇妙にも手を取り合っている(橋本 2007)。
その結果、ネオリベラルな経済体制に対するポストモダン型批判もまたその論拠を失うに至り、オルタナティブの構想に対する懐疑的態度が広く生まれている。人びとはグローバルな競争に否応なく巻き込まれ、その勝ち負けによって自らの人生の価値を推し量り、ポストフォーディズム型生産によって用意された選択の自由のなかで自らの生の価値を独り満たすほかない。ネオリベラリズムの均質化/差異化による空間編制は誰にも止められず、不均等発展の空間はどこまでも再生産され続ける。商品化の論理が生の差異を一元化し差異化の体系に落とし込み、場所もまた消尽される。
こうした状況のなかで、ネオ・ナショナリズム、ネオ・コミュニタリアニズム、ネオ・コーポラティズムが芽を吹いている。それは市場の論理によって分断された連帯(集合的価値)を復回することでネオリベラリズムに対抗しようとするものである。しかしいずれの立場も国民国家社会空間の再生産の論理を持ち出し、ネオリベラリズムの闇を外部(途上国)へ投棄し不可視化するものであり、不均等発展に対する根本的な対抗策足りえない。先進国の幸福が他者の不幸を前提にしていることを真に自覚するのであれば、その生は決して幸せなものではない。市場の論理は結局のところ勝者の生を正当化しえないのだ。
さらに言えば、そうしたナショナルな空間的境界に基づく「絶対空間の政治学」には大きな限界がある。この種の政治学の要点は、グローバル化を反転させ、グローバル経済を再び国家ないし国際的なコントロールの下に置こうとする点にある。グローバル化は「新自由主義以外の道はないと考えよ」と語るトランス・ナショナルなエリートによって政治的に操作され正統化されたものにすぎないと考え、従来のナショナルな政策、国家間(たとえばEU)の取り決め、市民参加によるガバナンスが目指される。そこで重要なのが「下からの圧力」であり、この圧力によって政府を動かし、ワシントン・コンセンサスを体現するIMFやWTOなどの超国家機関の政策転換を起こさせる戦略が採用される。
そして、このモデルの中心にあるのが、従来型の国家の役割である。その典型例であるハーストとトムソンのガバナンス論によれば、グローバルなレベルでのレギュラシオンは時期尚早であり、従来の国際関係が経済に及ぼす影響はなお大きい(Hirst and Thompson 2002: 254)。つまり、「世界経済はなお強く領土化されており、その中心には、境域的な通商圏、……経済的排除と不平等のナショナルなパタンがある」(Amin 2004: 222)がゆえに、国家による規制強化と民主的な国際主義によって、ネオリベラルなグローバルな不平等に取り組むことができるというのである。確かに海外投資のフローは数少ない先進国から発せられ続けており、グローバル企業は拠点となる本国を有しており、国際貿易は国民国家を中心にブロック化されている。国内の商取引も依然として増え続けている。
したがって、反TPP論などにも見られるようなナショナルなレギュラシオン論はある程度正しい。ただし、その種の議論は、グローバル化をあまりに狭く定義し、文化的なグローバル化の影響を見落としている(アーリ 二〇〇六:第八章)。ネーションを中心としたグローバル化解釈の問題は、そうした文化経済空間編制の変容(脱領域的なネットワーク、フロー、流動体の出現)のインパクトを認識できていない点にある。つまり、ナショナルな空間の政治学は、以下に見る新たなグローバルなフローとネットワークに伴うレギュラシオンの意義と、空間的な権力構造の変容を捉えていないのである。
ナショナルないしインターナショナルな構造が依然として経済的な力を有していることを認識することは正しいが、だからといってナショナルなものを唯一のレギュラシオンと政治変動の回路として想定するのは間違っている。以下で見るように、メタ秩序、全体性を固定的に志向する態度そのものが問題なのである。……
目次
序 空間から場所へ
■ 第1部 場所の位相
第1章 景観の場所、場所の景観
第2章 脱場所化と再場所化
第3章 創発する場所
■ 第2部 都市空間の基層
第4章 都市民俗の水脈
第5章 コミュニティとボランタリー・アソシエーションの間
第6章 地域コミュニティの「現在」―ジャカルタのカンポンの事例
第7章 ローカル鉄道の「空間」と「場所」
第8章 ローカル・イニシアティヴの方向性
編者あとがき