ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(1.5)

この記事は、「ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(1)」の続きです。

日々、さまざまなところで調査を進めていますが、そのなかで心苦しいことといえば、調査を重ねるごとに不義理を重ねてしまうことです。新たな出会いの機会が増えれば増えるほど、それまでに出会った人と出会えなくなってしまう……などと言っても、それは言い訳に過ぎないのではないか、きれい事ばかりいいやがって、本当は人でなしなんじゃないのか、と悩んでしまう。

そんな私に対して、とある町会長さんにこうおっしゃっていただいたことがありました。

「なんだ、そんなことで悩んでるのか。変なことを気にしすぎだ。別に、あんたに何かお返しをしてもらおうなんて思って会ってるわけじゃない。まだ若いんだから、自分のことを精一杯やりなさい。だけどな、もしあんたが年取ったら、若いやつらに同じように面倒見てやりなさい。それが分かってくれればいい」

この言葉を頂いて以来、私がただ一人で私に私を重ねて思い悩むことはやめにしました(私はダメじゃないかしら、という自己否定は、結局、私という自己が下した裁定である限り、真の自己否定にはなりえない。「否定のうちの安住」にすぎない、ということに気づいたのです)。もちろん、この言葉が、家なり共同体の論理のうちに「閉じたかたちで」発せられたものであれば、私は即座に拒絶することになります。

やや気取って言えば、私という意識は、私という意識を超える遥かなる時空上の連鎖の上に創発するものであり1)、であるとすれば、真の自己否定2)のために、その連鎖のさらなる時空的解放に向けて突き進もう、そう思って日本を離れ、そして歴史に目を向けて調査を続けています。

しかし、現今のネオ・リベラルな競争主義、ポスト・フォーディム的生産=消費様式は、たとえば自己実現の名のもとに、私が「私」であることをあくまで強要してくるのです。しかし、「私は私でありたくない」。もちろん、説教臭い道徳社会主義にも逃げたくない。

それに対して、私の出会ってきた町内会の方々の多くは、「私であること」と「私でないこと」の相反性3)を保ちながら活動しているようにみえたのです。そのことを、ゴミ捨て問題を取り上げて書きたかったのですが、つまらない「自分語り」をしてしまいました。

(2)につづく。

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1)私という意識の創発については、たとえば、安冨歩『複雑さを生きる』(岩波書店)のなかで、宮沢賢治の「わたくしという現象は/仮定された有機交流電灯の/ひとつの青い照明です」に始まる詩が取り上げられ、複雑性の理論が簡明に展開されるなかで、説明されています。また、真木悠介『自我の起原』(岩波書店)も。
2)「真の自己否定」については、ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』(岩波書店)。
3)「私であること」と「私でないこと」の相反性については、ジュディス・バトラーおよび山本哲士の所論。

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