ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(2)

この記事は、「ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(1.5)」の続きです。

研究者の道は、狭く、険しく、厳しい。博士号を取って、ようやく「ひよっこ」としてゴール無き大競争のスタートラインに立つ。文字通り、この世界で生きるか、死ぬか、をかけて切磋琢磨の日々です(むろん、競争のために学問をやっているわけではありませんが、とにかく食っていかなければどうしようもありません)。

そうしていると、とかく目先の浮沈にとらわれ、大きな地平が見えなくなってきます。そんななかで、調査で、普段は接することのできない方のご自宅に(失礼にも!)上がり込み、お話が聞けるというのは、本当に恵まれたことだと思っています。国内であれ国外であれ、調査を行なう際、私は最後に、人生の先達としてのアドバイスをお願いしているのですが、今日取り上げる町内会とは別の町内会の会長さんから、次の言葉をいただいたことを、とあることをきっかけに思い出しました。

才子才を恃み愚は愚を守る
少年才子愚に如かず
請ふ看よ他日業成るの後、
才子才ならず愚は愚ならず

(不勉強ゆえ、家に帰ってこっそり調べてみたところ)『偶成』と題された木戸孝允の漢詩による言葉とのこと。意味は、

「才子は才を恃んで努力することがなく、愚者は己の愚かさを知って愚直に努力する。
少年のときは才子よりもむしろ愚鈍なのがよい。
業をなしとげた後を見よ、
少年時代の才子が今は才子ではなく、愚かに見えたものが実は愚かではなく、
全く、その逆であることに気がつくだろう。」

よくある話といえば、よくある話ではありますが、会長さんの人生遍歴をお伺いし、そして、私にこの言葉をくださった、このことが何にも代え難く、人生においてもっとも大事なことであり、それがあって始めて言葉は言葉になる(ちなみに、このことを言語派社会学では「パフォーマティビティ」(performativity 行為遂行性)と呼んでおります)。座右の銘と致します。

いい加減、本題に入ります。

やや緊張しながら、(1)でみた町内会長さんのところへとお伺いにあがりました。最初は、「この調査の何が気に入らないって、云々」とやや距離がありましたが、自営でお忙しいにもかかわらず、長くつきあってくださり、そして、柔軟な考えをもって町内会を運営されている方であるのがわかったのです。

その一例として、ここで、ゴミ処理の問題を取り上げます。この町内会は山形市の中心部に位置し、なかには単身用のアパートも建っており、ここの居住者が町内会に入っていない。そして、こうした人たちがゴミ捨てのルールを守らないそうです。しかし、そうした住民に対して、この会長は、感情的ないし強権的な態度をとったりすることなく、静かに黙認しているというのです。

「正義感で動いてはいけない。確かに、こっちは自分が正義だと思っているけれど、向こうだって自分に正義があると思っている。それを頭ごなしにやったら、余計こじれる。今も正義で戦争をやってるでしょう。でも、正義を振りかざすことよりも『正しい』ことがあるのです。ムキになって注意したら、お互いいやな気分になる。ゴミをきちんと捨てられない人がいる、その事実を事実として客観的に受け止めればいいのです。相手には、自分から気づいてもらうのを待つしかない」

「規則にしたがっているのだから自分は悪くない」という思考停止の規則主義が蔓延する現在の日本社会にあって、この町内会長の態度、さらには町内会の運営力学は、「自由」から逃避する私たちの世代にとって、どうあっても見直されなければならないことです。そして、こうした「規則破り」の柔軟さは、この町内会長にのみみられることではなく、私がお会いした町内会長の多くに見られる態度でもあるのです。

(3)につづく。

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「ごみ捨ての問題と町内会の「正しさ」(2)」への2件のフィードバック

  1. 今期から町内会、幹部として参加しますので参考になります
    これからも宜しくお願いします

  2. コメントありがとうございます。今後は、これまでに見聞させていただいた町内会のユニークな活動、活性化策なども、取り上げてみたく思っています。
    今後とも、よろしくお願い致します。

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