【募集終了】単著を出します! 原稿を一緒に検討してくださる方を探しています!―『移動する地域社会学―自治・共生・アクターネットワーク理論』

現在、単著『移動する地域社会学―自治・共生・アクターネットワーク理論』の出版に向けて準備を進めています。「新潟大学人文学部研究叢書」の一冊として査読を受け、知泉書館より刊行される予定です。

私の研究歴はこれまで、地域社会学→医療社会学→科学社会学と変遷してきましたが、2年前に地域社会学のポストを得たことで、ようやくまとまった研究時間が確保できました。そこで、近年の地域社会学の成果をキャッチアップするとともに、アクターネットワーク理論の検討を進めることで、私がこれまでに行ってきたフィールドワークの結果と意義を問い直すことができました。その成果をまとめたのが本書です。

そこで、本書の原稿を一緒に検討してくださる奇特な方を探しています! 本文の分量は原稿用紙で700枚程度あるので、部分的に読んで頂けるだけでもとてもありがたいです。不躾ながら、相応のお礼はさせてください。メール等でご連絡頂けますと幸いです。

追記

2023.9.27

募集を終了しました。最終的に18名の方にご検討頂けることになりました。感謝しかありません。すでにメーリングリストも立ち上げており、コメントや議論や修正点などを随時共有しながらブラッシュアップを進めています! 2024年3月刊行の予定です。

2024.3.10

発売日が3月19日になりました。インターネット書店での予約(Amazon)も始まりました!

目次

目次は以下の通りです。

序論―移動する地域社会学に向けて

第一部 理論と方法

第1章  創発の社会学からアクターネットワーク理論へ

第2章  アクターネットワーク理論の基本概念をたどる――調査者と被調査者にとっての「移動の自由」

第3章  アクターネットワーク理論と記述的社会学の復権―社会学者が説明しないための理論

第4章  アクターネットワーク理論と岸政彦の「生活史」―地域社会の歴史と構造をめぐって

第二部 ケーススタディ

第5章  文化遺産と地域社会――仙台市柳生地区の町内会と柳生和紙

第6章  「開発と文化」と地域社会――バリ島村落世界と観光開発

第7章  自立型観光開発と地域社会――バリ島南部観光開発地域サヌールの場合

第8章  ポストコロニアリズムと地域社会――マカオの「街坊会」の場所性

第9章  災害「弱者」と地域社会――山形県内の町内会とNPOを対象にして

第10章 災害支援NPOと地域社会――東日本大震災を対象にして

第11章 自治体病院再編をめぐる「批判」と地域社会――青森県西北五地域を対象にして

結論

あとがき

参考文献リスト

参考文献リスト(2023年12月20日更新)は以下の通りです。

本文(序論)抜粋

本書の「序論」冒頭の草稿を掲載します(随時修正)。

本書は、モバイルな地域社会学―「移動する地域社会学」―の構想と実践の書である。いまや、新たな移動と情報のテクノロジーによって、ミクロとマクロ、近接と遠隔、内と外、家と野、親密と疎遠といった区分が取り払われている。ヒトやモノが脱領域的に移動しつながることで、ヒトやモノそのものが予期せぬかたちで相互変容している。移動する地域社会学が描き出そうとするのは、そうした新たな結びつきによって出来事としての「地域社会」が新たに構築されていく多様な動態である。

いま「出来事」という語を用いた。この語は、従来の地域社会学における含意をホワイトヘッド流に発展させたものである。詳細は本論のなかで明らかにしていくが、あらかじめ指摘しておきたいことがある。それは、ある出来事の起点ないし原因を、ヒト(主体)やモノ(客体)に単純に帰することはできないということだ。ヒトやモノ自体がつながることで変容してしまうからである。ある属性を帯びたヒトやモノは、つながりの結果であり原因ではない。

そうした非還元的で多様な動態を描き出すためには、もはや研究者が用意した外在的で静的な概念―たとえば、「主体」や「客体」、「生きられる世界」1)と「構造」―を単純に用いるのでは不十分である。ただし、これらの語の使用そのものを禁じられるわけではない。あくまで、これらの概念を不変なものとして、ある新たな出来事の起点や原因として外在的に用いることが禁じられる。つまり、研究者自身の営み(研究法や概念)もまた動的(モバイル)でなければならないということだ。この点は「モビリティーズの社会学」が指摘してきたことでもある(吉原 2022; Urry 2007=2015)。

そこで、本書では、この脱スケール的な移動の時代にふさわしい地域社会学の新たな研究法を彫琢するために、近年の地域社会学の数々の成果を踏まえつつも、アクターネットワーク理論(ANT)のポテンシャルに目を向ける。ANTは、「モビリティーズの社会学」の源流のひとつでもあり、やはり、ある出来事の原因を説明するものとして、ミクロなものもマクロなものも持ち出さない。第2章で詳しく見るように、あらゆるものをフラット2)に並べて、その動的な連関のなかから諸々の出来事が生まれ出ていると考えるのだ。したがって、地域社会についてもまた、「地域社会」という容器が外在しており、「そのなかで」私たちが生活しているなどとは考えない。

どういうことだろうか。まずは、ANTの旗手の一人として知られるブリュノ・ラトゥールがエミール・エルマンと著した『目に見えない都市パリ』(Latour et Hermant 1998)に依拠しながら、ANT流の地域論の基本的な着想について概観しておこう。私たちが「地域のなかで生活していない」とは、なんとも奇妙だと思わないだろうか。グーグルアースを開けば、地域全体を表示させることができるし、ズーム機能を使えば、自分が住んでいる家の屋根を見ることだってできる。私たちが「地域のなかに」住んでいるのは自明ではないか。しかし、ANTは、ズームはあくまで見せかけにすぎないと考える。というのも、現実に、地域全体を視野に入れたかと思えば、次には一軒一軒の屋根を見ることができるひとつの視点―神の視点―はどこにも存在しないからだ。グーグルアースは異なる視点を重ね合わせたものにすぎない。私たちは、異なるところにあるいくつかの視点を組み合わせることしかできない。しかし、複数の視点を並列させるにとどまるならば相対主義の罠に陥る。特権的な視点を持ち込むことなく私たちが私たちであるためには、複数の視点をフラットに結びつけることで集合性を取り戻す営みが必要だ。

本書で見ていくように、地域の全体を余すところなく捉えることができるという発想は幻想にすぎない。それでも地域の全体性ないし集合性をリアルに捉えようとするならば、もはや(一地点から一望的にあらゆるものが監視できるとされる)パノプティコンに立つことができるという虚構から脱出しなければならない。……

(以下、略)

1) 「生きられる世界」は、現象学に根ざした場所論(地域社会学の出来事論)で用いられる。ジョン・アーリは現象学的場所論の定住主義的性格を批判したが、この批判を、単に「現象学的場所論はヒトやモノによる地理的な移動を捉えていない」といった次元で捉えるべきではない。筆者の理解では,批判のポイントは,ヒトやモノが,あくまで人間主体の志向性のなかで捉えられており、人間主体の志向性を超える動態(アクターネットワーク理論の用語で言えば、「議論を呼ぶ事実」)を捉えられていない点にある。移動する地域社会学もまた,後者の移動性にも焦点を当てるものである。詳しくは本書第1章の状況論、ポスト現象学に対する批判を参照。
2) 「フラット」は、本書を通底する鍵概念である。研究者が、たとえば、上部構造、下部構造といったかたちで、諸々の存在を3次元的(上下)に位置づけることなく、「構造」であろうと「主体」であろうと、すべてを2次元的(並列)に扱う際の様態を指す。こうして、研究者は、マクロな構造によって目に見えない力が全面的に作用しているなどと考えることなく、具体的な(痕跡を通して目に見える)連関に目を向けることができるようになる(ラトゥール2019: 319-32;Latour et al. 2008を参照)。

よろしくお願いします!

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