伊藤嘉高「子どもの主体性とアクターネットワーク理論」『児童教育』34号掲載

お茶の水女子大学附属小学校・NPO法人お茶の水児童教育研究会の雑誌『児童教育』34号の特集「〈主体〉について考える」に寄稿しました。タイトルは「子どもの主体性とアクターネットワーク理論」です。

冒頭抜粋

情報テクノロジーの進展に伴い、現代の子どもたちの生活はかつての「子どもの世界」を超えてしまっている。この状況は、子どもの主体性にいかなる影響をもたらしているのだろうか。

一方の立場からすれば、情報テクノロジーは子どもと大人の境界を曖昧にし、親子関係を友だち関係へと変容させるなど、子どもの訓育に悪影響を及ぼしてきた。子どもは生来的に主体的ではなく、訓育によってはじめて主体的になる。そして、右派からは道徳の退廃が問題視され、左派からは資本主義の傲慢が問題視される。

他方の立場では、上記の変化は子どもをとりまく社会関係の民主化をもたらしている。子どもから大人へという一方的な他者尊重が相互的な他者尊重に変容することで、子どもの主体性が高まっていく。「子ども」は近代になって誕生した概念にすぎず、子どもは国民国家を維持するための教育によって飼い慣らされてきた。子どもの個性を尊重し自己決定権を認めたほうが、人間として本来備わっている主体性が育まれる。

果たしてどちらの議論が正しいのだろうか。本稿では、どちらの議論も自然/社会の二分法に囚われているために正しくないと論じたい。いずれの議論も、子どもないし人間の「主体性」を(あると見るかないと見るかという違いはあるが)本質主義的に自然なものと捉えるとともに、技術決定論的ないし社会構築主義的に変容するものだと捉えているからだ。現実は、言うまでもなくそうした図式的な議論に当てはまるほど単純ではない。情報テクノロジーを使いこなす子どももいれば、情報テクノロジーに飲み込まれる子どももいる。私たちが求めるべきなのは、分かりやすい単純化ではなく、多様な個別性に目を向けるための視点と方法だ。

ただし、急いで付け加えれば、本稿が採用するのは、自然的な領域もあれば社会的な領域もあるという折衷案ではない。本稿では、「どちらの領域もある」ではなく、「どちらの領域もない」という立場に立ち、その立場の重要性を明らかにする(ちなみに、同様の立場はセックス/ジェンダー=自然/社会の二分法を乗り越えようとする現代フェミニズムでも採用されている)。

そうした本稿の立場を支えるのが、アクターネットワーク理論(ANT)である。……

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