このたび、『社会学研究』のアクターネットワーク理論(ANT)特集号が刊行されました。本特集は、2024年度の東北社会学研究会大会シンポジウム「アクターネットワーク理論と社会学的記述」での議論と成果をまとめたものです。私は巻頭言と論文を寄稿しています。この記事では専門外の方にも関心を持っていただけるよう、そのねらいや私の問題意識をわかりやすく解説します。
特集のねらい
エコロジーの危機や社会的な分断が深まる今、社会学にはどのような役割が求められているのでしょうか。この問いに対し、ANTはこれまで、人間と非人間(モノや技術、自然とされるもの)を対等に扱う「フラットな記述」を提示してきました。それは、厳然としているようにみえる事実―「客観的な事実」―を、多様なアクター(モノも含む!)の関心(concern)が集まることで構築される交渉の場として描き直そうとする試みでした。これにより、今日の困難をもたらしている事物のつながりと、それをよりよいかたちへ組み直す可能性を描き出そうとしてきたのです。
しかし、フェミニズム科学論が批判してきたように、多様な関心をただフラットに集めていくという態度だけでは、どうしても活発に他者を巻き込む「声の大きいアクター」の動きばかりが目立ってしまいます。その結果、声を持たない立場の存在や、私たちの生の網の目を支える不可視化されたケア労働といった「見過ごされたもの」は、依然としてこぼれ落ちてしまい、かえって不平等を覆い隠すことになりかねません。
そこで本特集では、ANTによるフラットな記述のもつ陥穽に向き合い、より倫理的な応答を果たすための「ケアに根ざした記述」の可能性を提案しています。これは、世界が壊れないように維持・修復する日常的なケアを可視化し、私たちが記述(研究)を通じて対象といかに関わりあい、より公正な共通世界をいかにともに構築していけるのかを探る試みです。断ち切られたつながりを結び直し、オルタナティブな未来を構築する変革のポテンシャルを描こうとする営みでもあります。
本特集に収められた論考では、ANTの重要な概念でもある「翻訳」(多様な存在が互いに影響を与え合いながら結びつくプロセス)がいかに世界を接続するとともに、切断する力を持っているのかが、グローバルなサーモン養殖といった具体的な現場を通して描き出されています。また、この接続と切断の両義性を考えるうえで鍵となる不可視化されたケアワークにも光が当てられています。
本特集が目指すのは、「ケアに根ざした」記述によるANTの批判的継承ですが、それにより絶対的に「正しい」記述がもたらされるわけではありません。言うまでもなく、ケア自体が、支配的な秩序を再生産してしまったり、ケアされざる存在を生み出したりする両義的な営みです。私たちが世界を記述すること自体もまた、ネットワークのどこかを切断し、特定の現実を構築する介入に他なりません。だからこそ、私たちは「誰がケアされ、その裏で何が無視されているのか」というケアの政治学を、自らの記述においても常に問い続けなければならないのです。
研究者は、安全な場所から世界を見つめる中立的な観察者でも、すべてを解決する万能の専門家でもありません。自らの記述が世界への介入であることを引き受け―たとえば、安易な「客観的な記述」は主客二分法を再生産してしまいます―、良くも悪くも現場の「厄介さ」とともにあり続けながら、断ち切られたつながりをゆっくりと縫い直していく営みに加わろうとする一人の参与者です。
「ケアに根ざした社会学的記述」に関心を持っていただけた方は、ぜひ本特集号をお手に取ってご覧いただければ幸いです。
- 伊藤嘉高「巻頭言 どこまでも両義的な「ケアに根ざした」社会学的記述へ」
- 山田富秋「ガーフィンケルとラトゥールとケア―『アクターネットワーク理論と社会学的記述』シンポジウムに寄せて」
- 伊藤嘉高「アクターネットワーク理論による『フラットな』地域社会の記述はどこまで可能か―非規範的なケア実践としての社会学的記述へ」
- 福永真弓「種から解き放たれるとき―あわいものを記述するという倫理」
- 田代志門「アクターネットワーク理論とシンボリック相互作用論の出会うところ―不可視化されたモノの社会学へ」
- 栗原亘「新気候体制下において『共に生きることについての科学』を再考する―ANT以後の社会学を構想する試み」
- 山尾貴則「アクターネットワークとしての『べてるの家』と『当事者研究』―政治を実践することと記述することのあいだ」

拙稿について
上記の問題は、かつて、調査の現場で私自身にも突きつけられたものでもありました。青森県の自治体病院再編問題を調査した際、私は反対運動の当事者の方―雲祥寺の一戸彰晃さん―から「あなたの調査は優しくない」と指摘されたのです。この言葉は、研究者としての私の姿勢を根本から問い直すものでした(この調査は科学社会学会の『年報 科学・技術・社会』に掲載されています→紹介記事、新潟で行った講演の動画は下記)。
当時の私は、青森でさまざまな方々を対象に質的調査を重ねるなかで、医療者と住民とのあいだのすれ違いという問題を、専門知による「翻訳の失敗」として捉えるようになっていました。しかし、最終的に、住民が訴える再編の不利益を「客観的」に検証しようとして、質問紙調査という、状況に根ざした住民の経験を切り捨てる方法を採用し、知らず知らずのうちに、医療システムを支えてきたケアのエコロジー(持ちつ持たれつの関係性)を毀損する「切断」に加担してしまっていたのです。
もちろん、社会学者の倫理的・政治的な課題は、「切断」を避けることではありません(それは不可能です)。自らがどこで、なうネットワークを切断しているのかを自覚する場に身を置き、その介入がもたらす結果に応答し続けることです。この苦い経験を出発点として、社会調査の現場において、研究者が記述による接続と切断にどう向き合うべきかを論じたのが、本特集に掲載された私の論文です。以下に、その要旨を転載します。
アクターネットワーク理論による「フラットな」地域社会の記述はどこまで可能か―非規範的なケア実践としての社会学的記述へ
アクターネットワーク理論(ANT)は、人間と非人間を対称的に扱う「フラットな記述」により、〈関心を呼ぶもの〉を媒介にした「私たち」という共通世界の生成過程を捉える有力な方法である。しかしその方法上の対称性は、現実の権力勾配や不平等、周縁化された存在の苦しみを不可視化し、現状を追認しかねないという深刻な倫理的問題をはらむ。とりわけ地域社会の記述において、この問題は看過できない。そこで、本稿は、フェミニズム科学論、とくにM・プーチ・デラベヤカーサの〈ケアを呼ぶもの〉を援用し、アクターネットワークの構築を背後で支える不可視化されたケア労働や非対称的な依存関係、そして記述行為自体がもつ倫理‐政治性を前景化させた。その上で、〈関心を呼ぶもの〉と〈ケアを呼ぶもの〉を対立させるのではなく、その絡まり合いを視野に入れる必要性を素描し、筆者の病院再編の調査事例を批判的に再検討した。その結果、当初「翻訳の失敗」と分析された事態は、専門知が見過ごした「ケアのエコロジーの毀損」として再記述された。そして、筆者の調査自体もまたケアを欠いていた点を明らかにした。結論として、「関心」と「ケア」との異種混淆的な絡まり合いを社会学的記述の中心に据えることで、ANTの記述を倫理‐政治的に再構築することを提唱した。それは、世界の「厄介さ」に留まり続け、自らの記述がもつ責任を引き受けながら、より公正な共通世界を模索する、非規範的なケア実践としての社会学の新たなあり方である。
文献情報
- 伊藤嘉高, 2025,「巻頭言―どこまでも両義的な『ケアに根ざした』社会学的記述へ」『社会学研究』 110: 1-7.
- 伊藤嘉高, 2025,「アクターネットワーク理論による『フラットな』地域社会の記述はどこまで可能か―非規範的なケア実践としての社会学的記述へ」『社会学研究』110: 29-52.