「アクターネットワーク理論と人間科学―媒介子としての身体を記述する」『社会学年誌』62号掲載

伊藤嘉高, 2021,「アクターネットワーク理論と人間科学―媒介子としての身体を記述する」『社会学年誌』62: 7-22.

※「特集 社会学におけるアクターネットワーク理論の可能性」の一編。

『社会学年誌』62

要旨

アクターネットワーク理論(ANT)は、従来の学問分野を超え、世界的な隆盛を見せている。しかし、ANTの要諦をなす科学観については十分に共有されているとは言いがたい。質的研究と同様に、「ケーススタディ」に過ぎないなどとANTが批判される状況は変わっていない。しかし、そうした批判は、ANTの科学観に対する無知から生まれている。しかもANTの科学観を踏まえれば、ANTの議論はその様相を一変させる。本稿では、認知研究に焦点を当てつつ、ANTの科学観を明らかにする。そして、質的調査に根ざす今日の人間科学の意義が、ANT流に言えば、人間身体(さらには道具や装置といった拡張身体)の「媒介子」化のためにあることを論じる。

冒頭抜粋

アクターネットワーク理論(ANT)は、さまざまな誤解にさらされる一方で、さまざまな批判を取り込み、独自の展開をみせてきた。そして、2000年代後半以降は、人類学や社会学はもちろんのこと、地理学、経営学、哲学、美学、建築学、情報学などにもインパクトを与えている。

その嚆矢をなしたのが、2005年にブリュノ・ラトゥールが著した『社会的なものを組み直す―アクターネットワーク理論入門』(Latour 2005[伊藤訳 2019])である。まず英語で刊行された同書は、学問分野の垣根を超えて幅広く引用されるようになり、今日のANTの世界的な隆盛、流行をもたらしている。そして、遅ればせながら、日本でも2019年に邦訳が刊行された。

しかし、「流行」は「表層的な理解と受容」と背中合わせである。たとえば、『社会的なものを組み直す』の第一部では、五つの不確定性―ひとつに確定しえないもの―が展開されているが、以下に見るように、最初の三つの不確定性については、ANTを持ち出さなくても他の分野ですでに指摘されていることのように見える(実際には違うのだが)。そして、実際、英語圏の論文を見てみると、この三つの不確定性を援用するだけの論文も少なくない。

まず、第一の不確定性―確定的なグループはなく、グループ形成だけがある―について言えば、行為遂行性をめぐる議論がよく知られている。たとえば、家族というグループは、外在するものではなく、常に形成され続けなければならないというものだが、私たちが家族を維持するためにどれだけのものを動員しているのか考えれば改めて指摘されるまでもないことだ。

第二の不確定性―行為の発生源はアクターを超えており、発生源を確定させることはできない―について、ラトゥールは、make someone to actという表現を用いるが、その焦点は「行為の二重性と双方向性」にある(弁証法ではない!)。子どもは勉強していると同時に、母親に勉強させられている。バルザックは小説を書いていると同時に、小説の登場人物に書かされている。このニュアンスをあえて出すならば、「誰かが行為するようにする」と訳せるだろう。このようにややこしい表記となる理由は、「すること」と「させられること」が渾然としているのが私たちの行為の実際なのであり、それを適切に表す語彙がないためであろう。それは、フーコーの権力論が明らかにしてきたことだ。さらに言えば、中動態の議論もよく知られている。

第三の不確定性―モノにも行為をもたらす力があるが、行為に与するモノを確定することはできない―についても、状況認知や分散認知などを扱う質的認知研究でモノのエージェンシーは散々論じられてきたことだ(Hatchins 1995; Lave 1988[無藤他訳 1995]; Suchman 1987[佐伯訳 1999])。つまり、ここまでの議論であれば、あえてANTを持ち出す必要はない。

しかし、第四の不確定性―「厳然たる事実」は暫定的な効果に過ぎない―と第五の不確定性―確定的な記述を行うことはできない―を踏まえると、それまでの議論の意味合いも根本的に変わってしまう。実際、ラトゥール自身も、第二の不確定性の章の注のなかでこう述べている。

〔行為が分散的である〕点は、「状況に埋め込まれた」認知ないし「分散」認知に関する学問領域で鮮やかに指摘されており、その成果はANTにとって非常に重要である。……第三の不確定性を考える際には、ANTと以上の研究の関連はいっそう強いものとなる。第四、第五の発生源が検討される段になって、はじめて両者は袂を分かつことになる。(Latour 2005[伊藤訳 2019: 115-7])

ただし、ラトゥール自身も上記以上のことは述べておらず、このANTの根本をなす議論が十分に理解されているとは言いがたい。実際、質的認知研究の分野でANTとの異同を取り上げている研究はいくつかあるが(Licoppe 2009; Kathrin et al. 2010; Moran et al. 2012など)、管見の限りでは、この科学観の変容を踏まえた論じたものはない。

逆に、ANTと質的認知研究は共通点が多いゆえに、両者に対して寄せられる批判もまた共通している。たとえば、「個別の事例に焦点を当てて、行為に与するアクターを増やしていっても事例集にしかならないのではないか」、「普遍的な法則を求めず、個別的な付け足しを行うだけで、科学と呼べるのか」といったものだ。

こうした批判に対して、ANTであれば「科学観が違うのだ」と答える。もちろん、ANTの科学観は、荒唐無稽なものではなく、科学者の実践を観察して得られたものである。本稿では、この科学観の変容に焦点を当て、ANTの科学観が、認知研究にとどまらず「人間」科学の意義と役割を考える上でも有用であることを論じるとともに、人間科学に対するANTのポテンシャルを明らかにしたい。

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