2022年9月14日、日本都市社会学会第40回大会(於・実践女子大学)シンポジウム「コロナ禍における都市空間と排除」に討論者として登壇。タイトルは「ポストコロナを見据えたキノポリティクス(移動の政治)の視点から」。
報告者の駒木さん、高谷さん、白波瀬さん、いずれも「現状報告」は謙遜に過ぎず、それぞれがそれぞれにモビリティ研究の進むべき方向性をも明確に教えてくださる報告でした。関係するすべての皆様に感謝。
プログラム
【報告者】
- 駒木伸比古(愛知大学)「「地域」と「伝播」の概念からみたCOVID-19感染拡大対策の課題」
- 高谷 幸(東京大学)「コロナ禍における移民の生活と都市・公共空間の可能性と限界」
- 白波瀬達也(関西学院大学)「コロナ禍による寄せ場の変容 ―大阪・あいりん地区の事例」
【討論者】
- 山本薫子(東京都立大学)
- 伊藤嘉高(新潟大学)
【司会者】
- 川野英二(大阪公立大学)
- 伊藤泰郎(長崎県立大学)
コメント用メモ
- コミュニティ研究×モビリティ研究×アクターネットワーク理論の視点からコメント。
- どうして同じ都市空間のなかにありながら、ともに共生すべき存在として扱われないのか、というのが議論の大前提。点としての個が単に同じ空間を占めるだけでは、自然に共生すべき存在にはならない。高谷報告で指摘されたように、身体を含むさまざまな事物の連関を通して共生はパフォーマティブに達成される。
- とくに、多くの人に関わる「議論を呼ぶ事実」である事物を介して、人びとは集まり、利害を共有する存在として相互変容していく(地域社会学では「生活の共同」として議論されてきた)。
- たとえば、Covid-19もそうした「議論を呼ぶ事実」として登場し、さまざまなアクターが集まり、暫定的な「厳然たる事実」を構築し、対応策がその都度、決定されてきた。
- 「厳然たる事実」が「厳然たる事実」であるのは、その時点での事物の連関(つまり、アクターネットワーク)の暫定的な効果に過ぎず、新たなアクターが移動=連関することで、「COVID-19」という厳然たる事実はとたんに議論を呼ぶ事実になってしまい(これまでとは異なる対策が必要だ!)、再び厳然たる事実にするためにはコストがかかるため、新たなアクターの移動=連関は排除されがち。平常時ですら排除されてきた存在は、なおさら排除されることになる。
- 他方で、外部の存在の移動=連関をコストをかけて受け入れれば、その分、新たな「厳然たる事実」のリアリティが高まる(包摂度が高まる)。車椅子ユーザーとの連関を受け入れた都市インフラのバリアフリー化はその顕著な一例。
- コロナ禍においてはどうであったか。都市は、他者の移動の不可視性を特徴としているが、COVID-19によって、「不動化」とともに「移動せざるを得ない」人びとが可視化された。
- その結果、行政による制度的支援の限界が浮き彫りになり、日本はもちろん、ロックダウンのなかでも、さまざまなインフォーマルな支援・相互扶助が立ち上がった(年齢、ジェンダー、階層等々による差はありながらも;Springer 2020)。
- その結果、閉じた「ローカリズム」「定住主義」(Cresswell 2021)も高まりを見せた。移民へのネガティブなまなざし(スティグマ)、国外とのサプライチェーンに対する忌避と連動した相互扶助になっている。つまり、一つの移動が多様な移動を排除・レギュレートしてしまう結果になった(ちなみに、こうした事態を、研究者が「ローカリズム」と一元的にフレーミングしても、そうした動向に手を貸すだけ)。
- ただし、これは、コロナ禍初期の一時的な問題にすぎないという指摘もあるだろう。しかし、この経験は、ポストコロナの都市空間を考える上でも重要な論点になり得ると考える。
- ここで参照したいのがラトゥールのAfter Lockdownである。ラトゥールによれば、ロックダウンによって、欧州の都市の人びとは、『変身』のグレゴール・ザムザと同じく、部屋のなかで自由に動けない虫になった。しかし、ザムザの家族よりもよほど自由になったという。つまり、ザムザの家族は、無限定に移動でき、無限定につながれると信じている一方で、ザムザは、地上的な存在(terrestrials)として、どんな事物とつながって(連関して)生きるのかを決める自由を手にしたのである。したがって、ラトゥールは「ロックダウンは気候変動に対応するための予行演習」であるとしている。
- しかし、これは簡単には実現しない。さきほどのローカリズムの例でみたように、「グローバルないしローカルという既存の連関で閉じてしまうのではないか」という疑問がぬぐえないからである。
- 以上を踏まえると、ここで討議したい大きな問いは、「COVID-19と同様に、気候変動等を題目にすべての移動が一律に過度にレギュレートされることにならないか?」ということになる。もちろん、この問い自体に答えることは本旨ではない。つまりは、この問いを、今回のシンポジウムに落とし込み、「コロナ禍でも、COVID-19という「議論を呼ぶ事実」に対応するなかで、多様な移動の自由と安全(≠ M.Sheller “mobility justice”)は保たれたのか?」としたい。
- 【SQ1】仮放免者、日雇労働者、ホームレス、移民等が様々な存在との連関による生活(共生)を成立させるために必要な移動は、コロナ禍で、どこまで(非)制度的に保証・促進されてきたのか? たとえば、高谷報告で描き出されたシットインでみられた「アセンブリ」が、当事者や支援者を超えて、他の市民とのあいだに生まれる萌芽はあるのか。ANT流に言えば、「都市生活の共同」を成り立たせる諸存在の連関(アセンブリ)に組み込まれていくような動きがあるのか?
- 【SQ2】たとえば、白波瀬報告で指摘されたような西成への日雇労働者の匿名的・流動的な移動のように、従来から移動が(非)制度的に保証・促進されていなかった場合には、どの程度、さらにレギュレートされ、他の存在といっそう連関できないものになったのか?
- 【SQ3】マイノリティはもちろん、駒木報告が示しているように、多様な移動がモバイルなコミュニティをつくっているわけだが、都市研究者はどのように、多様な移動の個別的擁護に根ざした連関の政治(kino-politics)に貢献できるのか?