以前、本ブログ記事にて紹介した近森高明・工藤保則編『無印都市の社会学』について、拙評が『三田社会学』に掲載されました。
伊藤嘉高, 2014,「書評 近森高明・工藤保則編『無印都市の社会学―どこにでもある日常空間をフィールドワークする』」『三田社会学』19: 111-8.
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冒頭抜粋
本書で対象とされるのは、多くの社会批評家/社会学者たちによってネガティブなまなざしが注がれてきた今日の都市的空間だ。具体的には、コンビニや大規模量販店などの消費空間にはじまり、漫画喫茶やパチンコ店といった趣味空間、フリーマーケット、フェスティバルといったイベント空間、さらには、消費装置と化した伝統空間までもが、各章で分析される(全20章、11コラム)。
こうした空間は、複製されたジャンクな消費装置とメディア・イメージであふれかえっており、一見、場所固有の「厚み」を失っている―場所は、抽象的な属性の集合体として認識され消費されるだけである。コミュニティの集合的記憶が物質的に堆積されることもなく、マルク・オジェに言わせれば、「まったく新たな孤独の経験と試練」が人びとにもたらされる。つまり、人びとはすれ違いはするが出会うことはないというわけだ。
無印都市の問題構制
ところが、本書では、このように論断されてきた都市空間のありようが「無印都市」とニュートラルに名付けられ(コールハースの「ジェネリック・シティ」からとられている)、そこでの人びとの空間的営為の広がりと豊かさとがポジティブに捉え返される。編者の一人である近森高明によれば、「ジャンクな環境をネイティヴとして暮らす人にとって、むしろ“本物”は、それら消費装置の経験の連続のうちで触れられているのかもしれ」ず(p.3)、それは「『無印』化に対抗するカウンターの動きというよりも、むしろそれ自体が『無印都市』の享受の仕方の一部に含まれる動き」(p.6)である。
この問題構制の背景には、80年代からゼロ年代にかけて展開されてきた従来の郊外化論、舞台化/脱舞台化論に対する批判がある。つまりは、いずれも「ある特徴的な街に生じている変化に、同時代の都市空間の編成原理の転換を読みとり、それをモデル化した上で一般化するというやり方」(p.11)であり、つまるところ、「どちらも既存の都市空間が、ある異質な空間の侵略によって変質しつつあるという同じ見方の別バージョンなのだ。……いずれにしても『すべてが郊外化している』という着地点が待っている」(p.12)。
この批判は、都市社会学の方法論の反省(あるいはシカゴ学派への回帰)を迫るものであろう。ここで、科学社会学における科学技術社会論(STS)で展開されてきた「領域」、「ネットワーク」、「流動体」の空間パタンの区別を導入することで、この批判を評者なりに引き受けてみたい。場所論が明らかにしているように、都市的空間は、本来的には流動的であり、ひとつに固定されるものではない。ただし、人びとがそうした迷路に迷い込まないように、さまざまなかたちで、標準化と均質化が図られ(=視覚的な記号化)、「領域」として認識される。
そして、この領域化を実現するのが、ガイドブックや地図や標識などの「不変の可動物」の「ネットワーク」である。ブルーノ・ラトゥールのいう「不変の可動物」は、……