ブルーノ・ラトゥール著『地球に降り立つ―新気候体制を生き抜くための政治』(川村久美子訳)新評論、2019年。
概要
空気、海洋、氷河、気象、土壌、生命…地球上のあらゆる抗議者が声を上げている。人間‐自然、グローバル‐ローカル、右派‐左派…「近代」的二分法を問い直す。「テレストリアル」的政治の獲得に向けた思考実践。名著『虚構の「近代」』の著者による、覚醒的緊急アピール。
短感
本書は、「テレストリアル」(あえて訳せば「地上存在」か)というアクターを持ち込もうとする点で、ラトゥール流の(「連関の社会学」と対比される)「社会的なものの社会学」ではないかと思いました。つまり、『社会的なものを組み直す』第2部で「パノラマ」とされているものです。したがって、決して「理論的」ではないものの、ANT流の実践へと誘う書にもなっています。
本書では、地球温暖化懐疑論ないし地球温暖化否定論(ポストトゥルース)を、科学的認識の欠如に由縁する問題としてではなく、「共有すべき実践の欠如」に起因する問題として捉えています。この「共有すべき実践」こそANT流の実践そのものであると読めます(エコロジカルな実践ではない!)。
どういうことでしょうか。この実践はどこまでも科学的でなければなりません。そして、その科学は、真に「オブジェクティブ」でなければならず、つまりは、(厳然たる事実からなる)自然というイデオロギーと無縁でなければならないとされています(p.103)。
これは『社会的なものを組み直す』でも論じられていたことです。
『社会的なものを組み直す』にしたがえば、この世界を具体的に見せてくれるものは、すべて「オリゴプティコン」にすぎず、したがって、オリゴプティコンの視野の外には広大な不可視の後背地ないし隙間(プラズマ)が広がっています。このプラズマを重視するならば、「社会」や「自然」を持ち出すことなく、さまざまなアクターに従うべきである、ということになります。
かつての自然が無限であり、経済が有限であった時代から、経済が無限となり自然が有限となったいま、自己の有限性と相互依存性を再確認させてくれるのが、有限な大地であるというわけです。「労働者と資本家というカテゴリーは、人間同士の関係として定義されているにすぎず、実際には、物質の下部にはさらに幾重もの物質がある」(pp.96-7)。