ただ生きてあることの等しさ―川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』

川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』

自分の存在の「価値」に悩むことがある。「社会的価値」や「経済的価値」などといった一面的な価値が人間の価値そのものであるかのような錯誤が世界を覆っている。そのなかで自分の価値は相対化され、ものさしで測られるものとなり、気がつけばいたずらな富や権力や権威にすがるようになる。そして、そうした「分かりやすさ」に身を委ねることで、次第に「ただ生きてあること」の豊かさを失っていく。

川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』(医学書院、2009年)は、言葉と動きを封じられたALS(筋萎縮性側索硬化症)の母親に対する看取りの記録である。ここからは、時として「無意味な延命」と非難される人びとの生の豊かさを読み取れるが、私にとっては、逆に、自分の生の貧しさを突きつけてくる書籍でもあった。

尊厳ある死?

生の価値が「生産性の市場」によって判断されるようになるなか、「世の中は長患いの人の生を切り棄てる方向に猛スピードで走り出している」(264頁)。しかし、尊厳ある死を支えるのは、孤独な自己決定権などではなく、尊厳ある生であることに、まずは気づかされる。

母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさは分かってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくなかったのである。……自分は絶望している。こんな身体ではつらくてとても生きていられないと思う。すぐにでも泡のように消えてしまいたいが、「あなたはいなくなったほうがいい」などとは誰からも言われたくない。その瞬間に自分の尊厳は地に叩き落とされてしまうからだ。(47-8頁)

毎日の着替えもオムツの交換方法も、手や足を置く位置も、「何から何まであなたたちの言うとおりになどならないわ」という意地さえ感じられる。しかし今思えば、そうやって母は自己主張の練習をしていたのだった。……私たちにされるままになることに徹底的に抵抗を示すことで、ケアの主体の在り処を教えてくれていたのである。これも今だからこそ本当によく理解できるのだが、あのときは自分勝手ばかりいう母が許せなかったし、母のわがままとしか思えなかった。(60頁)

では、尊厳ある生(=自立した生)は何によって支えられるのか。パターナリズムに基づく一方的なケアでないことは言うまでもないが、しかし、本人の一方的な自己主張を聞き入れることでもない。尊厳ある生とは、人やモノとの関係の双対性が担保されていること(生の連環のなかの生)にほかならないと私は思う。川口は次のように指摘する。

本人に植え付けられてきた尊厳意識を塗り替えてもらい、生活上の優先順位を入れ替え、合理的で効率的な生活を望むようになったときに、初めて患者は紙オムツをはじめとする介護用品や医療機器の真価に目覚めていくのである。……ALSの人はみずからの身体をどうしたら健康で安全に維持できるかを学び直し、主体的に介護者を使いこなして初めて地域で暮らせるようになるが、障害者運動の活動家たちはこのようなことをこそ「自立」と呼んできたのである。なんでも自分が一人でできることを「自立」と呼ぶ健常者の定義とは180度異なる解釈だ。(128頁)

ALSの病は社会の病だ

やがてTLS(Totally Locked-in State=外眼運動系をふくめて臨床的に随意運動のすべてが麻痺してコミュニケーションがとれなくなるとされる状態)に至った母に対して、川口は「蘭の花を育てるように植物的な生を見守る」という表現を使い、その関係の双対性は極致に達する。

「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共存することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。……脳死とか植物状態と言われる人の幸福も認めないわけにはいかなくなってしまった。……ここからは簡単だった。患者を一方的に哀れむのをやめて、ただ一緒にいられることを喜び、その魂の器である身体を温室に見立てて、蘭の花を育てるように大事に守ればよいのである。(200頁)

そして、川口は、毛細血管の雄弁さを語り、こう訴える――「『ただ寝かされているだけ』『天井を見ているだけ』と言われる人の多くは、無言でも、常に言いたいこと、伝えたいことで身体が満たされている。ただ、そばにいてそれを逐一、読み取る人がいないだけなのだ」(186頁)。

こう見てくると、「健常人」もまた、その生の尊厳を自ら置き去りにしていることに気づかされる。ひとつやふたつの価値で測ることができるほど生は単純なものではないのに、そうした単純な価値を内面化して、生を貶めている。したがって、「非健常人」の尊厳を取り戻すことは「健常人」の尊厳を取り戻すことでもある。ALSの病は社会の病なのだ。

今回の書籍

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)
川口 有美子
医学書院
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