伊藤嘉高「岸政彦の『生活史』をアクターネットワーク理論と接続する」『現代思想』2023年9月号掲載

今年度の「社会調査実習」では、高齢者の住まいに焦点を当てたライフヒストリー調査を実施しています。そこで、前期は先行研究の収集・整理を行うとともに、受講者の約半数が2年生でしたので、「ライフヒストリー調査の方法をきちんと考えておこう」ということで、岸政彦『マンゴーと手榴弾』の輪読も行いました。

もっと入門書的な書籍も検討しましたが、「一人で読めるものは各自で読めばよい」と考えて、学部生にはややハードルが高いけれども抜群におもしろい同書を選びました。実際に精読してみると、デイヴィッドソンを下敷きにした議論は確かに難解です。たとえば、ある種の社会構築主義が批判される一方で、「もちろん事実なるものは、社会的に構築されるものである」といった言辞が出てくるのをどう理解すればよいのかと、学生たちは頭を悩ませていました。

そうした学生たちと読み進めるなかで、わたしは「この議論はアクターネットワーク理論(ANT)とつなげれば、すべてがうまく理解できるようになるのでは!?」と思うようになりました。逆に、ANTに対する誤解―歴史や構造といった「社会的なもの」を扱う社会学を全否定している―もまた、岸さんの議論と接続させることで氷解するのではと思い至りました。

一言で言えば、岸さんの「生活史」(他者の合理性の理解社会学)の構想もラトゥール流のANTも、ともに、素朴実在論/社会構築主義の二分法のなかで身動きの取れなくなった「社会的なものの社会学」を再開させる方法を同じ方向で示していると考えられるいうことです。

今回の『現代思想』生活史/エスノグラフィー特集号では、このことを論じる機会を頂きました。つながることでポテンシャルが浮かび上がる。「一粒で二度おいしい」本稿をぜひご覧ください。

書誌情報

  • 伊藤嘉高(2023)「岸政彦の『生活史』をアクターネットワーク理論と接続する」『現代思想』51(11): 205-218.

冒頭抜粋

本稿に課せられたのは、岸政彦の『東京の生活史』(岸編 2021、以下『生活史』)の都市社会学的・地域社会学的意義を論じることである。「都市を、あるいは東京を、遂行的に再現する作品」である同書のあとがきで岸はこう述べている。

こうして、一二〇〇頁を超える本書が生まれた。しかしふと思う。たった一五〇人の、わずか一万字の語りでも、これだけの分厚さになる。東京都の昼間人口はおよそ一五〇〇万人である。全員分の生活史を書こうとすると、たとえひとりあたり一万字でも、本書が一〇万冊必要になる。
都市の、あるいはひとりの生活史の、この膨大さ。(岸 2021: 1211)

「偶然」生まれたひとつの言葉、ひとつの出来事が、次の言葉、次の意味を「必然」的に生み出していくとされる『生活史』では、岸による理論化、一般化は何らなされていない。にもかかわらず、いかに「都市」や「東京」といった集合的なものを遂行的に再現できるのか。あるいは、もはや集合的なものを遂行する必要はないのか。そうした書籍のどこに学術的意義があるのか。しかし、本稿では、『生活史』の構想をあえて強い意味での「方法論」として捉えたい。この『生活史』の厚みは、理論化や一般化といった営みに対して、何を訴えかけているのか。それでも理論化や一般化をしようとするのであれば、それはどういったものでなければならないのか。
以上の点について、大きな手がかりとなるのが岸の『マンゴーと手榴弾』(岸 2018)である。本稿では、同書のなかで岸が明らかにしている立場を、筆者が専門にしているアクターネットワーク理論(ANT)の視点1)から読み解いていく。一見、岸の立場は、ANTが批判対象にしているとされる「社会的なものの社会学」に近しいようにもみえるが、実際のところはANTとかなりの程度共振していることが明らかになるだろう(そもそも、後述するように、ANTは「社会的なものの社会学」を復活させるためのものである)。両者の問題意識は共通しており、乗り越える方向性も一致している。ANTの旗手であったブリュノ・ラトゥールは、『社会的なものを組み直す―アクターネットワーク理論入門』のなかでこう述べている。

〔ANTによる報告の良し悪しを判定するには〕アクターの用いる概念が分析者の用いる概念よりも強いことが認められているのか、あるいは、分析者が一人で一から十まで話してしまっているのかを問えば十分である。〔……〕さまざまな引用文や記録文書についてコメントしている本文は、アクター自身の表現や行動よりも興味深いのか、興味深くないのか、同じくらい興味深いのか。こんなテストは簡単すぎて答えるまでもないというのであれば、ANTはあなたに向いていない。(ラトゥール 2019: 59)

本稿では、岸とラトゥールの共鳴を明らかにすることで、それぞれの議論を表層的に読んだ際には見落としてしまうであろうポテンシャルを浮かび上がらせたい。そして、『生活史』が新たな「都市」と「東京」の理論化、一般化への理路を示していることを論じたい。あらかじめ結論を示しておけば、膨大な生活史の背後に都市の歴史や構造があるわけではない。とはいえ、都市は間主観的に構築され、多様に解釈される対象でもない。都市の歴史や構造はさまざまな存在との連関により構築されることで、強固な実在性を帯びる。そして、『生活史』もまたそうした連関による構築の舞台である。一つひとつの生活史をつなぐために私たちは都市の構造や歴史をさまざまな存在とともに出来事として構築するのだ。……

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