自己愛とデジタル・テクノロジー~アンソニー・エリオット『デジタル革命の社会学』ご恵送御礼

アンソニー・エリオットは自己論で知られる社会学者ですが、その最新刊の翻訳『デジタル革命の社会学―AIがもたらす日常世界のユートピアとディストピア』が刊行されました。翻訳者のお一人である遠藤英樹さんにご恵送いただきました。

本書は、AIに代表される新たなデジタル・テクノロジーの出現が自己や社会にどのような影響を与えようとしているのかという観点から記述はされていません。テクノロジーと自己や社会はそもそも切り離されるものではないという観点から(アクターネットワーク理論的!)、既存の学問的フレームワークに拠りながらも、「いまここで起きている」デジタル革命による自己や社会の変容を描き出そうとしています。

本書の内容は、雇用問題、性愛、自動車移動、戦争、環境保護、民主主義など多岐にわたります(その分、網羅的な記述が続くので、この論点に関する事例の興味深さを求める方は、久保明教さんの『機械カニバリズム―人間なきあとの人類学へ』をおすすめします)。

この記事では、エリオットの本来の専門である自己論が展開されている第3章「デジタル・ライフと自己」を紹介します。

本章は、精神分析の概念が十分な説明無しに登場しており論理の展開が追いにくいため、関連文献を調べながら読み進める必要がありました。本記事は、それを踏まえた読書メモです。

書誌情報

  • Elliott, A., 2019, The culture of AI: Everyday life and the digital revolution. Routledge.(=2022, 遠藤 英樹、須藤廣、高岡文章、濱野健訳『デジタル革命の社会学―AIがもたらす日常世界のユートピアとディストピア』明石書店.)

情報システムとしての自己

SNSなどを介して、私たちはオンライン上に「自己」を出現させています。オンラインの世界は、新たな対話や創造の機会をもたらしていると同時に、さまざまなストレスをももらしているようにみえます。

しかし、エリオットによれば、デジタル・テクノロジーとAIがもたらしているのは、自己形成や自己経験の意味そのものの変容です。

エリオットは、精神分析のアイデアを選択的に取り入れています。まず、フロイトが示したように、自己はフラストレーション(内的・外的要因による欲求不満)から逃れることはできません。こうしたフラストレーションに対処するためには、現実世界と橋渡しする思考(=思考による予行演習←本書では「審理的行為 trial action」と訳されている)が必要になります。

フラストレーションに耐えるために、自己は、自身の過大な欲求や感情の一部を他者に投射したり(「自分の思いは伝わっているはずだ!」)、あるいは、優れた他者を取り込み一体化したりすることで構築・再構築されていきます。精神分析の伝統的な見方では、こうしたプロセスを経て感情的関係が発達し成熟していくとされるわけですが、この自他間の相互作用にデジタル・テクノロジーはどのように関わるのでしょうか。

エリオットは、ここで、「ある種の情報処理システムとしての自己を明らかにしてくれるゆえに、精神分析はデジタル・テクノロジーを理解する上で洞察に富んでいる」(p.141)と宣言します。

自己は、一種のインフォメーション・プロセッサ、つまり種々の度合いで感情のリテラシーを表現することについて有能なプロセッサとして作り直されるかもしれない。このスマート機器の時代に鍵となる精神分析の問題は、私たちがどのようにつながるかということよりも、私たちがつながることが自己にとって何を意味するのかということなのである。

(p.142)

タークル―ナルシシズムと新しい孤独

エリオットが最初に取り上げ批判するのは、シェリー・タークルの『つながっているのに孤独―人生を豊かにするはずのインターネットの正体』です。周知のように、タークルは、テクノロジーの発達が感情的な孤立を高めていると主張しています。

テクノロジーによるつながりは錯覚に過ぎず、つながりの増大は私たちを感情的に疲弊させ(たとえば、SNS上の反応を過度に気にする)、また人工的に感情的欲求を表現するロボット(とくに幼児の玩具)とのつながりによって自己を豊かに構築されることはないというわけです。

そして、「テクノロジーに使われるのではなく、テクノロジーを使うのが私たちである」と、二分法的な主張を展開します。

批判的見解

これに対して、エリオットは、「タークルがほとんど黙して語らない、自己の豊かさと、自己の途方もない複雑性」を前景に出します。

まず、人びとは、デジタルな対象に盲目的に従っているのではなく、「現実の環境、デジタル環境、ロボット環境のあいだを絶えず行き来し、そうすることで、それぞれの設定内に有する機会とリスクに照らして、自己の行為や活動を省察している」ことを明らかにします(p.149)。

その上で、その能力は、デジタル世代とその他の世代で対照的であるというよりは、「社会経済的な階層分布や人種/ジェンダーのようなファクターが重要」であり、さらには、デジタル・テクノロジーが幼児の心にダメージを与えるという理論が科学的エビデンスによって支持されたものではないことを示しています。そして、タークルの議論は、「今日のテクノロジーが媒介する高速な社会的相互作用を前にした感情の防衛の形として、伝統的な対面的相互作用の形態に織り込まれた大人の心的構造を見ている」(p.154)にすぎないと批判します。

さらに、エリオットは、タークルが「自己対象」について論じている一方で、ウィニコットのいう「移行空間」についてほとんど論じていないことを批判します。

自己対象とは、自己愛を満たすために必要とされている対象のことで、内的世界と外的世界を橋渡しするために不可欠とされています。例としては、自分を認めてくれる存在、自分の理想を体現する存在、価値観等を共有する存在などが挙げられます。そして、外的世界との分離により全能感が失われても、この自己対象との経験を通して心理的安定や自己評価の維持が得られるようになることで、自己は相対的に他者から独立していられるようになります。

しかし、自己愛性パーソナリティのように自己がうまく構築されない場合には、自己愛が肥大化し、他者が自己対象に押し込められ、他者が単なる「モノ」や「自己の一部」として経験されるようになります。

タークルの見方では、ソーシャブルロボットと遊ぶ場合、ロボットが子どもに合わせたコミュニケーションをするために、人間関係につきものの摩擦や抵抗が生まれません。つまり、他者を独立した他者として受け止める経験にならず、自己愛性パーソナリティの虚弱な内面を強化してしまう自己対象になってしまうのです。

これに対してウィニコットの「移行空間」は、自己対象とほぼ同義である移行対象(典型例としては、肌身離さず持っているぬいぐるみ)との結びつきが生まれる動態に目を向けるものです。(母子未分化な状態から分化した状態への移行を促す)移行空間では、

子どもは対象にユニークな意味を吹き込み世界を創造するのであるが、対象がすでにそこに存在しなければ世界は創造されない。……この観点からは、自己の他者(テディベアであれ、文学であれ、音楽であれ、おそらくはデジタル・テクノロジーであれ)が、高度に個人化された創造物であることが明らかになる。

(p.155)

この移行空間の二重性(内と外、自己と他者、空想と現実)を踏まえるならば、デジタル・テクノロジーが作り出す移行空間においてもまた、(二分法ではなく)二重性のなかで個人がどのように生きるのかを学んでいるのかが問われなければなりません。

包み込み、保存、デジタルキー

ここでエリオットが参照するのが精神分析家クリストファー・ボラスの議論です。ボラスによれば、私たちが対象に出会うときには、対象に独自の意味を付与しており(=感情や欲望や空想を投入しており)、これにより自己が組織化されているといいます。つまり、対象によって、感情や不安などを蓄積し、保存し、探究し、表明することが可能になり、言い換えれば、対象との関係のなかで自己が創り上げられているのです。

この意味で、デジタル・テクノロジーもまた移行対象になりえているというのが、エリオットの主張です。デジタル・テクノロジーに対して、私たちはどのように感情を投入し、保存し、自己を変容させているのでしょうか。

いくつかの例が挙げられていますが、ここでは「セルフィー(自撮り)文化」について見ることにします。自撮りは、注目を浴びたいという虚栄心とナルシシズムの発露として単純に論じられることがありますが(そしてその言説を真に受けて自らを貶める若者もいますが)、実際にはそうした紋切り型に収まることなく、自撮りはさまざまな人びとによってさまざまに実践されています。

たとえば、若者や女性や性的マイノリティたちは、必ずしも「いいね!」の数を多く集めたいからではなく、それぞれの支配文化に対する疑義や批判をもセルフィーを通して生み出し、自己を変容させてきました(長島有里枝×清水晶子の記事も参照)。

あるいは、麻薬とギャングであふれたスラム街で行われている自撮りでは、注目を集めるための行為ではなく、検閲を逃れた自己表現が密かに行われており、そのなかで、読み書き能力やコミュニケーション能力を向上させてもいます。

自撮り文化は、このように、開かれたプロセスとしての自己アイデンティティの探求を促しています。他方で、自撮りは、強迫やアディクション、さまざまな社会問題をもたらしていますが、これらが遺伝的要因、神経生物学的原因、人格障害などに還元できる問題でないこともわかります。

創造的に生きるということには思考が伴う。私たちが、自己変革に必要とされる適切な対象を探し、それらの対象を用いて、そしてそれをとおして思考することは、いわば自己の複雑性を精緻化する決定的な手段なのである。……デジタル・テクノロジーの世界に生きることは、経験を生み出す新しいあり方、および欲望と情動を探求する様々な新しい形式を伴う。……デジタル・ライフは接続と切断の複雑なテクノロジーのネットワークをとおして組織されており、そのなかでの感情的な不安と包み込みは、根本的なものとして私たちの目の前にある。

(p.172-3)

以上のエリオットの議論を踏まえれば、近代が築き上げた「自己」像がデジタル・テクノロジーによっても消失する一方、どのようなデジタル・テクノロジーとどのような存在を介してどのような「自己」と「思考」を立ち上げていくのかが問われていると言えます。

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