ブリュノ・ラトゥール「批判はなぜ力を失ったのか―〈厳然たる事実〉から〈議論を呼ぶ事実〉へ」(全訳)

ブリュノ・ラトゥール(伊藤嘉高訳)「批判はなぜ力を失ったのか―〈厳然たる事実〉から〈議論を呼ぶ事実〉へ」『ヱクリヲ』12: 198-230、2020年5月刊行。特集「ポストクリティーク : いま批評には何ができるのか」に掲載。

原著:Bruno Latour, 2004, Why Has Critique Run out of Steam? : From Matters of Fact to Matters of Concern, Critical Inquiry, 30 (2): 225-248.

本論文は、文芸批評等における「ポストクリティーク」の先鞭を付けた論考として、あまりにも有名。被引用回数は6,000を超える。

訳出にあたっては、校閲担当の村井厚友さんに大いに助けて頂きました! 恥を忍んで校正稿の一部を以下に公開します。致命的な誤訳を指摘頂いた箇所(真ん中あたり)です。

冒頭抜粋

戦いがある。実に多くの戦いだ。外なる戦い、内なる戦い。カルチュラル・ウォーズ、サイエンス・ウォーズ、テロとの戦い。貧困との闘い、貧困者との戦い。無知に対する闘い、無知から生まれる戦い。私が問いたいことは簡単だ―私たち研究者や知識人も戦うべきなのか。荒廃の地に新たな荒廃を重ねることが、本当に私たちのすべきことなのか。破壊行為に脱構築を加えることが、本当に人文学の仕事なのか。聖像破壊をさらに進めるべきなのか。批判精神はどうなってしまったのか。力を失ってしまったのか。

ごく簡単に言えば、私が心配しているのは、批判精神が正しい目標に向かっていないかもしれないということだ。比喩的な意味での戦いの時代の雰囲気にとどまって言えば、軍事の専門家たちは、戦略ドクトリンや危機管理計画を絶えず修正し、ロケットやスマート爆弾やミサイルの規模、目標、性能を絶えず見直している。私たちが、いや、私たちだけが、そうした類の見直しや修正を免れる理由がどこにあるのか。私たちが、学界のなかで、新たな脅威、新たな危険、新たなタスク、新たな目標に対する備えを怠ることなく進めてきたとは思えない。周りが一変しているというのに、私たちは、機械仕掛けのおもちゃさながらに、同じ仕草をいつまでも繰り返しているのではないか。私たちが、今なお年若い子ども―そうだ、年若い新兵、年若い士官候補生―を、もはや起こりえない戦争のために訓練していたら、ずいぶんとおかしなことではないか。とうの昔に姿を消した敵と戦い、もはや存在しない領土を制圧する一方で、予期せざる脅威、まったく準備をしていない脅威に対しては装備が足りていない。

将軍たちは戦争に遅れをとっていると常に非難されてきた―とりわけフランスの将軍がそうであり、とりわけ最近はそうだ。いずれにせよ、知識人―とりわけフランスの、とりわけ今の知識人―もまた戦争に遅れを取っており、つまりは、批判に遅れを取っているとすれば、それはそれほど驚くべきことだろうか。とにもかくにも、知識人が先陣を切っていた時代からずいぶんと時間が経った。確かに、前衛、つまりは、プロレタリアや芸術家といった概念そのものが消え去り、他の力に押しのけられ、後衛に追いやられ、あるいは最後尾の貨物車と一緒くたにされてから、長い時間が経った。批判的な前衛の動きを見せることはまだできるが、その精神は生きているのか。

このひどく憂鬱な時代にあって、私たちの乏しい能力をできるだけ早く方向転換させるために、以上をはじめとする問題を追究したい。私は、読者を落胆させるのではなく、読者を前進させたいのだ。自分の正しさを証明するために私が手にしているのは、必ずしも事実ではなく、むしろ小さな手がかり、頭から離れない疑い、気がかりな兆候である。『ニューヨーク・タイムズ』の社説に以下の引用が見られるときに、批判はどうなっているのか。

ほとんどの科学者は、[地球]温暖化の主たる原因は人工汚染物質であり、厳しい規制が必要であると考えている。[共和党の政策コンサルタントである]ルンツ氏もこのことを認めており、「科学的な議論は私たちに不利なものになっている」と発言している。しかし、ルンツ氏は、科学的な証拠がまだ完全ではないことを強調しようと提言している。というのも、「そうした科学的な問題が解決したと一般市民が信じるようになれば、地球温暖化に対する見方も変わってしまうだろう。したがって、科学的確実性が欠如していることを最も重要な問題にし続ける必要がある」からだ。

どうしたものか。ポール&アン・エーリックならば、〔地球温暖化対策(グリーン・ポリシー)に対するバックラッシュである〕「ブラウンラッシュ」をあおるために作為的に維持された科学的論争と呼ぶだろう。

どうして私が心配しているのか分かるだろうか。私自身は、事実の構築に内在する「科学的確実性の欠如」を示そうと時間を費やしてきた。私もまた確実性の欠如を「最も重要な問題」にしていたのだ。しかし、私は、必ずしも、決着をみた議論の確実性を曖昧にすることで、市民を欺こうとしたのではない……はずだ。いずれにせよ、私はまさにその罪で告発されている。それでも、私は逆に、市民を解放するつもりであったと思いたい。早まって自然化、客観化してしまった事実からの解放だ。私はうかつにも誤解を受けたのか。状況がそれだけ速く変わってしまったのか。……

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