「ボランタリズム」「マカオのコミュニティづくり」「人類学/民族誌の系譜」『コミュニティ事典』所収

伊藤守ほか編『コミュニティ事典』(2017年、春風社)所収。

「ボランタリズム」は「第4部 ボランティア、NPO、NGOとコミュニティ」(似田貝香門編)、「マカオのコミュニティづくり」は「第12部 アジアのコミュニティ」(橋本和孝編)、「人類学/民族誌の系譜」は「第15部 コミュニティ・スタディーズの対象と方法」(吉原直樹編)の一項目。

本事典は、15の大項目内に総417項目、執筆者284名による専門知・実践知により、過去と現在から未来に向け、コミュニティのあるべき姿が模索されている。

「ボランタリズム」冒頭抜粋

1. 「ボランティア」の歴史

ボランティアは、ラテン語のvolunts(自由意志)を語源としており、自発性(ボランタリズム)に根ざした社会活動家を意味していた。人間の自由と独立を尊重する近代社会のなかで発展し、日本に紹介されたのは明治中期の頃で、隣保事業(セツルメント)などの福祉事業に係わる専門用語であった。

戦後になり、1960年代の福祉国家建設のなかで社会福祉運動が高まりを見せると、ボランティアの語は、民間福祉施設における奉仕者といった意味合いで用いられるようになった。そして、この頃には、社会福祉を民間の施設やボランティアの無償労働に頼る状況を問題視する声がすでに上がっていた。つまり、ボランティアは、国家による社会福祉制度の充実や福祉国家の実現を阻害するものと見なされたのである。そこで、ボランティアは単なる奉仕ではなく、社会問題の認識と解決―つまり、既存の社会体制の打破―を視野に入れた社会運動であるべきだとの言説が登場した。

その一方で、高度成長のなかで地域共同体の解体が問題視されるようになり、1969年には国民生活審議会が「コミュニティ/生活の場における人間性の回復」を発表した。そこでは、ボランティアをコミュニティ形成に活用することが提案され、以後、社会福祉協議会の下にボランティア・センターが設置されるなど、ボランティアの振興がさまざまに進められていくことになった。

この頃になるとボランティアの語は一般社会に広がり、奉仕の語に取って代わるようになる。戦前・戦中の愛国心や滅私奉公のイメージが取り去さられ、生涯学習なども背景に、人間性に基づく活動―「生きがい」をもたらす活動―として再定義されたのである。こうしたボランティア観の変容が、ボランティアの非対称性(ばつの悪さ)を希薄化させるとともに、1980年代以降のボランティアによる福祉社会の実現という政策的要請を支える……

「マカオのコミュニティづくり」冒頭抜粋

1. マカオ地域コミュニティの祖型

華南地方の中国人社会の特徴と言えば、何と言っても血縁組織の強さである。ただし、ポルトガルによる植民地化以前のマカオ(澳門)では、土着の宗教コミュニティの結束が強く、その他の中間集団はほとんど存在していなかった。「マカオ」の名の由来となった「媽閣廟(マーコウミウ)」が信仰の中心地であり、今日もマカオ随一の観光地として保存されている。植民地体制下においても、媽閣廟などの門前の空き地は、インフォーマルな公共的活動の空間として機能し、たとえば、公共の討議や慈善活動の場となったり、祭礼活動や義塾の場となったりしていた。

中国系住民による確固たる地区コミュニティが生まれだしたのは19世紀以後である。大量の移住流入と中国系住民の生活水準の向上が進むなかで、新興中国人商人が中心となって地区コミュニティの整備が進められた。そこでは、橋梁の修復、道路の修繕、教育施設の向上、貧困者に対する医療扶助や食事の提供、死者に対する無料の棺の提供、さらには、紛争調停や教育事業までもがなされた。こうして「街坊(カイフォン)」と呼ばれる中国人コミュニティが形成されていったのである。

2. 共産党影響下のコミュニティ組織化

日中戦争下でのナショナリズムの勃興、共産党と国民党の対立再燃を経て、植民地体制下の街坊が政治的な影響力を持ち始める契機となったのが、1966年の一二・三事件である。事件の発端は、1966年11月にタイパ島の街坊会が……

「人類学/民族誌の系譜」

1. 機能主義人類学と宇宙論的コミュニティ

ラドクリフ=ブラウンが『アンダマン島民』を著し、マリノフスキーが『西大西洋の遠洋航海者』を出版したのは1922年―近代人類学の始まりの年―であった。マリノフスキーらの機能主義人類学は、あるコミュニティを生み出し支える原理を見出すべく、フィールドワークを通して、そのコミュニティに見られる共通の特徴に目を向けた。コミュニティは、経験的調査によって明らかにされるひとつのモノであり(社会有機体)、他のモノからは切り離された独立した統一体であった。

こうして、「地域研究」(コミュニティ・スタディ)という言葉が生まれ、そこで調査されたのは、明確な境界をもち、社会文化的に均質で、ひとつの場所に住む人口集団であった。そして、社会‐文化の統合機能を果たすさまざまな「宇宙論的(コスモロジカル)」ないし「儀礼的」な営為が観察された。

2. 象徴主義人類学とコミュニティの脱本質主義化

しかしながら、そうした社会文化的リアリティが成員間の交渉や競合の産物であることを強調するアプローチが生まれるようになると、コミュニティは固定的な構造次元で説明されるのではなく、流動性をはらんだ象徴次元で捉えられるようになった。ここで、「コミュニティ」は、もはや自明で本質的なものではなくなった。つまり、絶対的なモノというよりは、人とモノの関係のなかから立ち上がるものであり、文化的に構築された相対的なものであるとされた。

こうした象徴主義人類学が明らかにしてきたのは、……

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