「過剰な都市化に伴う地域共同性の変容―仙台市域町内会の制度論的転回に向けて」『日本都市学会年報』39巻掲載

伊藤嘉高, 2006,「過剰な都市化に伴う地域共同性の変容――仙台市域町内会の制度論的転回に向けて」『日本都市学会年報』39: 91-102.

冒頭抜粋

1.序―「地域」再論

(1)都市の状相―過剰な都市化

今日の町内会の様態を考える際,まずは町内会を取り巻く「都市」の状相を把捉することから始めなければならない.その際のキーノートをなすのが「過剰」なる概念である.通例,過剰都市化といえば,都市部の雇用機会を上回る労働力が農村から都市部に流入することによる都市部での労働力超過のことであり,近年では,アジアのメガシティにおけるインフォーマル・セクターの増大を指摘する概念枠組みの一つのとして用いられている.

しかし,本稿でいうところの「過剰な都市化」がこうした文脈とは性質を異にすることはいうまでもない.ここでの「過剰な都市化」とは,ポスト近代化が近代化の過剰であるのと同じ意味でポスト都市化のことなのである(同様のターミノロジーとして,内田 20002:355以下を参照).すなわち,デヴィッド・ハーヴェイが『ポストモダニティの条件』(Harvey 1989=1999)のなかで指摘したように,モダニズム的都市計画が統合的な空間概念(すなわち画一と集積)を意図していたのに対して,ポストモダン都市空間は美学的な自律性を前面に押し出すのである.そして,労働集約からデザイン集約へという生産過程の情報化とともに,都市空間は離心化し,都市生活は即時性を強めフレクシブルなものとなる.

〔ポストモダン都市の〕象徴的な脱中心性は,ポストモダン消費文化全般のメタファーとなる.つまり,あらゆるものが断片化され,多様化され,分散され,多元化されているということ,そしてそれらは消費者の選択に委ねられているということだ.(Lyon 1994: 61=1996)

(2)「ローカル・コミュニティ」への視座

さて,こうしたグローバルな状況下において,我々はいかなるローカルな生活を選択していけばよいのであろうか.一方には,自己のアイデンティティの不安定さから,ローカルなるもの(地域的なるもの)にリアリティを見いだし,差異を否定する「ローカル・コミュニティ」に安定性を求める道がある(つまりは,町内会全肯定;このことはリージョナル,ナショナルな同型的次元においても当てはまることはいうまでもない).そして,他方では,ローカルなるものを支配と抑圧の構造とみてその一切を否定するラディカリズムの道がある(つまりは,町内会全否定).しかし,いずれの道も今日の「地域」研究にふさわしい態度とは思えない.道はもう一つある.それは,時空間の圧縮に伴う「場所感覚」(Massey 1994: 146-156)を呼び覚ますことから拓かれる.そのためにはいくらかの転回が必要となる.

第一に,我々は時間を動的なものとし,空間/場所を静的なものと解釈しているが,その誤謬を取り払うことが必要である.そして,たとえアジア社会に広く見られるように一つの場所に一つのコミュニティが確固として存在している場合でも,そのコミュニティにもまた「内的構造」があることを,そして,一つの場所には種々にネットワーク化された数多くのアイデンティティが連関し対抗していることを認めていかなければならない.つまり,場所とは社会諸関係のネットワークの「固有の交接点」(Massey 1994: 154)であり,プロセスとして捉えられるものなのである.したがって,「境界」を引くことで「領域」として一元的なコミュニティとして場所を規定しようとする(つまり内と外をつくりだす)ことには一定の反省が求められよう.

しかし,そうであるからといってローカルなるものの「価値」を否定することにはならない.場所の種差性の再生産は,長期的かつ内在的な歴史から導き出されるようなものだけではなく複数の源泉があるのだ(Massey 1984=2000).「ローカルなるもののグローバルな感覚,場所のグローバルな感覚がいま求められているといえそうだ」(Massey 1994: 156).……

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