ラトゥール『社会的なものを組み直す―アクターネットワーク理論入門』読書会記録@北海道大学

北海道大学の伊藤崇さんにブリュノ・ラトゥール『社会的なものを組み直す―アクターネットワーク理論入門』の読書会にお招きいただきました(主催は北海道大学教育学部子ども発達臨床研究センター)。

参加者の方々に事前に頂戴した質問に対して訳者なりの理解を記したものを作成しましたので、共有したいと思います。

当日は、この資料などに基づいて活発な議論が行われ、私では力不足でしたが、大変に中身のある時間にして頂きました。誠にありがとうございました。

序論

1. 「アクター-ネットワーク」か,「アクターネットワーク」か?言い換えると,アクターが能動的にネットワークを作るという話なのだろうか?

  • 前者が原書に忠実な表記で、一般的には後者です。アクターとネットワークが不可分の関係にあることを表しています。つまり、ここでの「ネットワーク」とは、エージェンシー(行為をもたらす力)の経路を指しており、「アクター」とは行為の起源ではなく、これらエージェンシーの経路の結節点なのです。ネットワークがなければアクターはなく、アクターがいなければネットワークはない。

2. ラトゥールはタルドを参照するが,タルドの模倣論についてどのようにとらえているのだろうか?

  • 模倣こそ、行為がアクターを超えてなされることの証左とされています(ただし、行為は「社会的な力」によってなされるものではありません)。

3. ライプニッツの言うモナドは,後に,「窓のある」モナドと「窓のない」モナドという2つの受け止め方が出てきた。ドゥルーズやタルドは「窓のある」モナドだが,ラトゥールはそのような理解をしていたのか?

  • 万物(すべてのアクター)が連関しあって、万物(すべてのアクター)が成り立っている。とするならば、あるアクターは、原理論的には宇宙そのものであり、つまりは、モナドである。そして、神による秩序ではなく、万物の連関によるものなので、「窓のある」モナドである。

4. ANTはそれ自体は目的をもたないモノ同士の運動によって有機的な組織が生まれるという考え方なのだろうか。もしそうだとしたら,進化論や進化心理学との近さを感じる。

  • はい。本書では、オルドヴァイ渓谷の石と人類進化の事例が挙げられていました(→訳注47)。

5. コネクター(連結器)と言っていいのだろうか?

  • 本書では「連結装置」と訳していますが、「連結器」と訳してもよいかという意味でしょうか。

6. 「社会的なものの社会学」で社会学者が満足できていた時代から社会が変わった,というのは具体的にはどのような社会変化を想定しているのか?

  • たとえば、計算機、IT、AIや生殖技術などの進展が、「社会/自然」を枠組みとする分析を無効にしています(たとえば、これらの技術進歩がもたらした認知や倫理の変容)。あるいは、グローバルな環境問題の出現、エコロジー運動の高まり、人びとの移動距離の増大(移民、難民、観光、ビジネス)。

7. 「連関の社会学」の特徴として「導管」持ち出されているが,これは後のページに出てくる中間項・媒介子とはどのような関係にあるのか。

  • 1で触れたエージェンシーが流れる経路が「導管」です。中間項の場合、エージェンシーをそのまま伝えていきます(直線的な因果関係が成り立つ)。媒介子の場合、エージェンシーのありようを変えて伝えることで、諸々の存在のありようを変えてしまいます(直線的な因果関係が成り立たない)。ちなみに、ANTは科学的な因果論を否定しているわけではなく、実験室などにおいては、A→Bのような直線的な因果関係を実在化させるモノの連関があるのだと考えます。ただし、それはあくまで科学の存在様態の話であり、一般に媒介子の連関から成り立つ場面においては、直線的な因果関係は事後的にしか成り立ちません。

8. インプットとアウトプットの対応がないのが媒介子の定義だとするならば,それは人間には当てはまるだろうが物にも当てはまるのだろうか?当てはまらないのだとしたら,人間と物は区別されてしまう(ANTは区別しないはずなのに)のではないか?

  • たとえば、車に乗ると気が大きくなる運転手がいます。この場合、車というモノが運転手のエージェンシーを変えて、車‐運転手が暴走運転をもたらします。したがって、車というモノは媒介子です。そして、ANTは、主体/客体の区分は捨て去るものの、代わりに、人間と物(非人間)の区分を持ち込みます(p.144参照)。ここで重要なのは、人間=主体、モノ=客体ではないということです。確かに人間には意志があり、その点が非人間とは異なります(ヒヒやサルのことは脇に置く)。ただし、人間の意志は、その人間には還元できないというのがANTの眼目です。

9. 物の意味を解釈するのは結局のところ人しかできないのではないか。

  • 人にしかできませんが、人だけではできないというのがポイントかと思います。また、「解釈」の多様性は、モノの複数性がもたらしていると捉えられています。

10. ラトゥールの立場と,近年の思弁的実在論やオブジェクト指向存在論との関係がもしも分かれば教えて欲しい。

  • 私の理解によれば、少なくとも本書におけるラトゥールの立論は、あくまで社会学の「方法」として位置づけるべきです。つまり、それまで見逃されてきたエージェンシーをたどるために、最も適した方法は何かを出発点としてANTの着想に至ったのであり、もっとよい方法があればANTを捨て去っても何ら問題ありません。世界が「本当のところ」どうなっているのかをANTが説いているわけではありません(「本当のところ」を措定しないのがANTなのですから)。したがって、思弁的実在論やオブジェクト指向存在論からの「ANTは関係主義だ。関係がなければ、モノは存在しないのか」といった批判は、(哲学的には興味深いのですが)ANT批判としてはズレているように思います。(Nora Hämäläinen & Turo-Kimmo Lehtonen (2016) Latour’s empirical metaphysics, Distinktion: Journal of Social Theory, 17:1, 20-37でも同様の主旨が述べられており、ラトゥール自身が参照を促しています。)

第1部

1. 言語構造の線形的性質が「たどる」メタファになんらかの制約を与えているだろうか?

  • 難しいです。

2. object=モノという訳でいいのか 

  • 実際のところ、モノではふさわしくなく、「対象」と訳したほうが分かりやすいところもあります。objectを「対象」と訳せば、thingは「物」と訳せたかもしれません。ただし、多くの箇所では「モノ」のほうが収まりがよいため(ANTに近い社会学では「モノ」の語をよく使います)、訳語の統一を優先させました。「対象」のニュアンスも感じて頂きながら、読んでいただけると幸いです。もちろん、「客体」と訳すべきところは、そのように訳しています。

3. 第一の不確定性の発生源

①p.68 連関の社会学(sociology of associations)は誰?ANTを支持する社会学者のことだろうが,説明が欲しい。

  • p.21に連関の社会学がANTの別名であることが論じられていますが、確かに唐突ですね。

②社会的慣性(social inertia)の概念は?

  • 人びとの間に根付いた文化や慣習や流行、ハビトゥスは、無反省的に繰り返されます。それは「社会的な力」によるものだというわけです。

③遂行的な行為への注目は同意します。遂行的な行為の生成のための条件分析とその理論は必要ではないのか?

  • ANTは、「イノベーションの社会学」とも自称しているように、1回限りの出来事に焦点を当てるため、条件分析にはなじまないと考えます。

④社会学批判の文脈から離れて心理学の問題にあてはめた時,the socialなものへの批判は心理学に対してどういう批判が可能になるか?これは心理学者がANTをどう受け取るか,自らの研究の批判点はどうなるか?自らの研究課題です。

  • ある出来事について、ある人間に「内在」する「心理的なもの」を持ち出すことで十分な説明が可能とするならば(まっとうな心理学者はそのようなことをしないでしょうが……)、それはANT流の批判の対象になると思います。タルドの心間心理学に対する記述がpp.413-4にあります。

4. 第二の不確定性の発生源

①アクターとは?やはり人だろう。しかしそれでOK?あるいはヒト-モノ連関,ヒト・モノ-状況を含めたもの? アクターとエージェンシーは違うのか?(エージェンシーは多用されているが)

  • 「アクト」(行為・作用)するものは、人間であれ、非人間であれ、すべて「アクタン」ないし「アクター」です。ただし、アクターはその行為・作用の発生源(原因)ではないことが重要です。やかんでお湯を沸かすというアクトの発生源は、私であるように見えます。しかし、やかんがなければ、お湯は沸かせません。火がなければお湯は沸かせません。やかんと火がなければ、お湯を沸かそうと思いません。したがって、「アクター‐ネットワーク」がお湯を沸かしているのです。ちなみに、本文中に「アクタンが形象化されるとアクターになる」とありますが、ここでの「形象化」は行為の源とみなされるものになるという意味で理解する必要があると考えます。

②p.88 動的な標的(moving target)とは何のこと?

  • ある行為の「主体」(アクター)は、さまざまなエージェンシーの結節点として成り立っており、したがって、時間的・空間的に固定されるものではないということだと理解しています。たとえば、ある日突然、真面目になる学生など。

③エージェンシーは形象化(figuration)とは別のものだ。それではエージェンシーはどうあるべきか?

        形而上学の新しい位置づけが必要ということだろうが,形象化はどうしたらよいの?

  • エージェンシー(ある行為をもたらす力)は複数ある一方で、私たちは唯一のエージェンシーを有するものとして特定のアクタンをアクターとして形象化している。これを分けて考える必要があるということではないでしょうか。

5. 第三の不確定性の発生源-モノにもエージェンシーがある

p.132   モノを行為の進行に与するものとする

ここでモノと行為の連関を論じているが,モノと行為についてもっと具体的な事例を挙げて説明してくれるとわかりやすい記述になったのでは。抽象論議ではないものが欲しいが著者は具体例を念頭にして書いているが,読者には分かっているだろうという前提で書いている。

  • ANTで最も有名な例として、『科学が作られているとき』で登場する銃‐市民があります。別資料参照。

6. 第四の不確定性の発生源

ここ私には了解不可能でした。科学社会学に濃く関わったラトゥールにとってははずせない部分かもしれませんが,第1~第5の不確定性の中では落ち着きが悪い部分でした。

  • 「厳然たる事実」と「議論を呼ぶ事実」の区別はいかがでしょうか。この区別こそ、「物質‐記号論的な」ANTの根幹をなしていると考えられます(『科学論の実在』参照)。つまり、確固たる実在が外在しており(=厳然たる事実)、それを私たちが不十分/十分に記号化しているのでもなければ、私たちが恣意的に記号化しているのでもなく、無限に物質←→記号←→物質←→記号←→……の変換が続いていると考えるのです(循環する指示/参照)。この記号化によって、物質性、特殊性、ローカル性などが次々と失われる一方で、テクスト性、互換性、相対的普遍性が得られ、「不変の可動物」になっていきます。これが、「変形(transformation)なき転置」ではなく、「諸々の形式変換(transformations)による転置」であり、科学の営みなのです。そして、ここで決定的に重要なのは、この変換過程は理論上、無限に延長することができることです。「厳然たる事実」はある段階での記号にすぎません。私たちがどれだけ物質側に向かっていっても、最終的な外部の指示対象に出会うことは決してありません。物質は、常に次の記号へと変換される可能性を帯びています(「議論を呼ぶ事実」)。私たちは確かに物質的な世界に住んでいますが、決して記号の世界を離れることはできません。

7. 第五の不確定性

第1部のはじめは説明ではなく記述だと言ったが,説明の仕方(多様な視点を入れる)が問題なのだということだが,「結局,狭いジャンルの中だけで考えるな」という主張なのか?これだと今まで言われてきたことの反復ではないのか?

  • 今まで言われてきたことの反復でないとするならば、社会科学のありようが変わっている点が挙げられると思います。ANTは、「ジャンルの垣根を超えて、より真実に近い説明を目指す」のではなく、より多くの媒介子(アクター)が登場する記述を行い、社会的なものを組み直し続けることに資することを目指します。

8. ヒトとモノはフラットに捉えられるのか?(モノもヒトと同じエージェンシーを持つのか?)

  • 回答済みですが、ヒトとモノを(いや、国も、微生物も)フラットに扱いますが、ヒトには「意志」がある点が、モノとは異なります。ただし、「ある意志をもった行為」はヒトの意志に還元されるものではなく、ヒトとモノの連関(アクターネットワーク)によって実現されるので、ヒトとモノをフラットに扱う必要があります。

9. エージェンシーとパフォーマティビティは同じか?(両方とも「行為可能性」?)

  • エージェンシー:行為をもたらす力。パフォーマティビティ(行為遂行性):言葉を発することで、ある行為や事柄が実現してしまうありよう。→したがって、両者は異なる概念ですが、しかし、密接につながっています。つまり、ある行為のエージェンシーの帰属をめぐって(「どうしてあんなことをしてしまったのか?」)、絶え間ないグルーピング(形式化)がなされている結果として、ある行為のエージェンシーの帰属が決められているのであって、そもそも行為の起源は不確定なのであるというわけです。したがって、新たな出来事を扱う際に、私たちは、「社会」なり「心理」なりといった、特定の形式(分析枠組み)から出発してはならないというわけです。

10. 種差性とは?

  • 訳注3で、「他とは異なる独自の性質を有した」といった意味合いであると書いておきましたが、いかがでしょうか。

11. 個別の研究と「個々の研究の研究」と「個々の研究の研究がもたらす影響についての研究」という三層を勝手に想定してしまったが…,こんな理解で良いのだろうか?

  • そうですね。実際のところ、社会的なものの社会学は決して全否定されているわけではなく、「パノラマ」として働いていることが示されています。

12. 複数性と多元性の違いは?

  • 「多元性」はANTのインフラ言語としては用いられていないと思いますが、何ページでしょうか。とくに違いはなさそうです……。

13. 心理学の実験研究(者)ならば? ラトゥールの指摘の重要性やその可能性に魅力を感じるのですが,一方で実験的手法を用いる研究者(これは私自身のことでもあります)は,どのように得られた分析結果を〈議論をよぶ事実〉としてアクターを捕まえればよいのでしょうか。たとえば,形成的介入実験などは,アクターのつながりで描きなおせる?もしそれが出来るとどんなよいことが?

  • 「実験研究者のように、社会学者もまっとうに研究しようぜ!」というのが本書の主張ですので、実験研究者の方に偉そうに言えることはなさそうです……。ただし、実験の結果得られた実在性を単一性と置き換えてはいけないという主張はできそうです(ただ、この主張も、あくまで科学的事実は、より確からしい事実でしかないということを踏まえている研究者にとっては、よく分かっていることかもしれません)。

14. ANTで情動は扱えると考えられているのでしょうか?

  • 情動もまた、個人の心理や精神に還元的ないものとして扱うことができると思います(ラトゥールの議論でいえば、ファクティッシュ(物神事実、分かちがたい結び付き)論があります(『物神事実崇拝』参照)。

15. エイジェンシーは遂行される際に都度都度あらわれているという理解でよいのでしょうか?

  • どのような疑問点からのご質問でしょうか。

16. 社会学者は得てして,アクターが言っていることに対して明晰な擁護を作り出そうとする結果,アクターが用いるものと社会学者が用いるものの二つのメタ言語を混同しかねないのはなぜか?

  • 「擁護」は「用語」ですよね。社会学者からすれば、荒唐無稽なことをアクターが言っているように見え、それを社会学者は「虚偽意識のなせるわざだ」と分析してしまうと、アクターの言っている「荒唐無稽なこと」が「虚偽意識」になってしまい、「荒唐無稽なこと」に目を向けることができなくなってしまう。それはなぜかというと、安定した社会秩序を生み出すという政治的要請があり、その要請に早急に答えようとしてしまったからであるとラトゥールは言っています。

17. 「批判社会学」よりも,「批判の社会学」の方が適切ではないか?

  • まず、「批判社会学」(外から批判を行う社会学←ブルデュー社会学など)と「批判の社会学」(アクターの批判を扱う社会学←ボルタンスキーやANT)の区別があります。前者については、「批判的な社会学」と訳すこともできると思いますが、おそらくは「批判理論」という表記法も踏まえて、業界内では「批判社会学」と訳されています。

18. グループを定義するアクターは人間に限られるのか?

  • 中国のアリペイの信用スコアなど、AIなどによる人間の信用度の格付けなども始まっていますね……。

19. 疑いようのないグループはANTでは研究できないのか?

  • そうだと思います。ただし、集合体の組み直しを進める上で、そうしたグルーピングが障害になる場合には(最も大きいのが自然/社会というグループ)、疑いようのないグループを成り立たせている事物の連関を記述することに政治的な意義はあると思います。

20. グルーピングの安定性を生み出せる器具は,そもそも「社会的」であることとは別の特質を有しているはずだとは,どういうことか?

  • この場合の「社会的」とは「人が関わる/対面的」の意味での「社会的」です(ややこしい!)。つまり、対面的な関係(諸々の社交スキル)だけではグルーピングの維持は困難であり、したがって、安定したグループがあるならば、そのグルーピングを時間的に持続させ、空間的に拡張させる器具があるはずだということです。

21. 「非社会的な資源の結びつき」とは何か?結びつきこそが社会なのではないのか?

  • ここでの「非社会的」も「人同士の結び付きでない/対面的でない」という意味です。

22. 社会的な力を顕在化させる力が極めて重要だが,決定的に重要なのではないとはどういうことか?

  • ANTにしてみれば、「決定的に重要なのではない」というのが、私の理解です。

23. 社会の構成子とはアクターのことか?

  • メンバーを「構成子」と訳しました。通常は「構成員」ですが、社会を構成するものは人だけではないという含意です。ただし、p.135などは「構成員」でよかったかもしれません。

24. 第1部はこのようなまとめとして理解してよいのでしょうか?

不確定性を携えて突き進め!!~それこそが社会科学の直感を可能にする~

第1の不確定性 グループ形成だけがある

        発生論的に考えよ

第2の不確定性 行為はアクターを超えている

        アクター連関として考えよ(潜在的,形象化されない場合の呼び名としては「アクタン」) その中で行為は実現する

第3の不確定性 モノにエージェンシーを認めよ(人間,非人間無差別)

        「させている」という形のエージェンシーがある(厳密には「させる可能性を有する」)

        モノにも潜在性(無限のアフォーダンス)があるゆえ,ヒト-ヒト,ヒト-モノ,モノ-モノという出会いの組合せを差別する必要はない

第4の不確定性 事実をして議論を呼び続けさせよ

        〈議論を呼ぶ事実〉を志向せよ

        科学は唯物論であるが,その対象と相対的に独立である(構築主義,本来の「事実の構築」)

        しかし絶対的独立ではない(絶対的独立と考えると社会構築主義になる)

        科学はその対象のタダモノ論的営為ではない ナイーブな(自然)科学,〈厳然たる事実〉志向

        束の間の中間項を媒介子として見直せ 媒介子の連関として見ることでorしばしば新たな媒介子を連関に組み入れることで,「発見」が現実化する(「変換」と呼ぶ)

第5の不確定性 研究自身もアクターとして他のアクターとつながる形にせよ

        中間項に対する媒介子の割合を高くせよ

        私たちの全ての動きの記録をつけよ

        アクターネットワークについて広く視野をとれ→4種のノートをとれ

        アクターの数を増やせ

  • 異論ありません! 冒頭は、「社会科学の直感を最後まで保つことを可能にする」のほうが正確かもしれません。

第2部

1. 注釈などで示されているようにかなりフーコーの影響を感じるが、パノプティコンは「パノラマ」ではないということができるだろうか(スローターダイクの球体はパノラマであると注にはある。要はパノラマとはあらゆるものを貫いて語ることができるモデルのようなもので、あくまで「種差性specific」なものであるパノプティコンは「パノラマ」ではない)?

  • 一望しているのはどちらも同じですが、パノプティコンは実際に監視しており、監視がなければ機能しないわけですが、パノラマは閉じきっており、室内で上映できれば機能する点に違いがありそうです。したがって、パノラマのメタファーが採用されているのではないでしょうか。

2. なぜここまで批判社会学がやり玉に挙げられているのかと言うのは,例えばポピュリズムにおいてメディアが,人々が見たいものを見せるようになって,同じようになってしまう。このように、「展開」ではなく,我々がなぜ終わっているのかを示す(共通世界の組み立てをシニカルに破壊してしまう)だけだからなのだろうか?

  • 批判社会学の側から「ANTは権力関係を忘却している」だとか「ANTは新自由主義の手先だ」などと批判されてきたので、その意趣返しということかと思います。

3. 政治と認識論の古典的な分離をもって批判社会学を批判するのではない。これは僕の書き換えですが,ANTはメタには立たないと言うので,こういう批判的な形で批判社会学に近づき,「社会」についての、論争的な事実を組み立てたということができるか?つまりどちらも政治的認識論なのだが、批判社会学は「経験的、政治的に空虚」で弱いということになるか)

  • 「こういう批判的な形で批判社会学に近づき,「社会」についての、論争的な事実を組み立てた」をもう少し敷衍していただけるとありがたいです。

4. ラトゥールにおける認識論と存在論の関係。複数の形而上学は、複数の認識論と読み替えれるようにも思える(失敗する可能性のある政治的認識論、各学問分野の記述=ある時点でのパースペクティブの相対性、探究活動の無限性がむしろ反証可能性的に担保する「科学性」)、それを政治的認識論と言ってよいか。また変化や危機においてデータが得られ、学はそれをそれぞれの好む安定的な記述に落とし込む(むしろ観測された不思議な存在が、記述=認識によって既知のネットワークに書き込まれる)。

同時にこの企ては、区別され、早急に収集を行ってはいけないともいわれるが、しかし諸学の十分な展開によって、一元論的な共通世界、「自分たちが住みたいと思う世界」の組み立てに参与することも可能になる。認識論=形而上学は複数可能であり、その(政治的な)目的は共通世界=存在論の対象の確立と整理できるでしょうか?

  • まずは用語の整理から。ラトゥールの論において、認識論(知識を生み出す適切な方法の探究)は科学の営為と結び付けられています。(経験的)「形而上学」(エージェンシーをめぐる論争)は、実在性の複数性と結び付けられています(p.227)。というのも、形而上学の複数性は、主体の複数性に由来するものではなく、実在性(存在様態)の複数性に由来するものであるからです。ここから、単一化が加わると、「存在論」(「真の」存在のありようを規定する営為)になります(つまり、それ以外では形而上学と存在論はイコール)と整理されています(原注166)。したがって、認識論と形而上学はそのまま結び付かないと思いますが、もっと思考を深められそうだとも思います。

5. その他のところに出てくる「計算の中心」という概念がいまひとつとらえにくい。ラトゥールの「科学が作られているとき」にも一つの章を使って説明してはいるが。

  • オリゴプティコンについては問題ないでしょうか。オリゴプティコンのなかでも数値による計算が行われる管理の場が「計算の中心」と呼ばれます。たとえば、駅の改札という狭小な場に乗客を集め、切符やスイカなどを介して、乗客を数値へと変換し、乗客数をカウントすることで、「広域的な」管理を可能にしています。ただし、改札のシステムにバグが発生した瞬間から、管理は不可能になってしまいます。

6. 「政治的なやり方で,政治体の逆説的な姿を何度も何度も描き直している」(p.454)という一文は,どういう意味なのでしょうか?あまり具体的なイメージが湧きませんでした。

  • ここの「逆説的な」は「矛盾した」の意味で捉えてください。つまり、全体を一人で代表するという矛盾した姿です。したがって、選挙が典型ですが、常に「本当に代表しているのか」を確認することが求められます。

7. 媒介子とは「集合体を広範囲にわたってまとめ上げて組み立てる存在」(p.455)ということですが,結局どのようなものなのか,具体的なイメージや具体例を教えて頂きたいです。

  • たとえば、科学的な連関(集合体)と、法的な連関(集合体)は異なります。科学の場合は、どこまでも因果をたどろうとしますが、法は責任の所在をどこかに求めざるを得ません。実験器具や論文などの媒介子の連関が科学の様態を成り立たせている一方で、法的文書や判例などの媒介子の連関が法の様態を成り立たせています(『法が作られているとき』参照)。

8. 「ある振る舞いは,プラズマから生まれる無数の要素のなかで生じているはずである(=見当もつかなかったつながりと循環のなかで生じているはずである)」。これはつまり,「ある振る舞いの解釈が難しい場合,マクロなものを持ってきて議論を飛躍させたり,振る舞いをした人に議論を収斂させてエージェント間の結びつきの存在を忘れたりするんじゃない。その人のある振る舞いにつながる,未知のつながりを探しなさい」ということかと思います。これは疑問点というほど確たるものではないのですが,どんな研究になるのだろうか,という具体例をお教えいただけると嬉しいなと感じております(あまり良い例えが思いつかなかったので)。

  • 優れた自然科学(実験科学)の研究が、まさにそのようなものではないでしょうか。たとえば、治療に有効な物質(アクター)を発見するために、幾度となく繰り返される失敗ばかりの地道な研究です。

9. ANTの概念同士の関係を具体的に考えたいので,もし良ければ伊藤先生のご研究,もしくは ANTのアイディアを援用した良さそうな研究を解説して頂けるとうれしいです。

  • ミアレの『ホーキングInc.』はいかがでしょうか。ホーキングの「知性」は、ホーキングを取り巻くさまざまな人(看護師や大学院生)、さまざまな機械や装置との「連関」によって生まれているさまが描き出されています。ホーキングも優秀な大学院生もこの連関のなかではじめてそのエージェンシーを獲得しています。

10. 伊藤先生によると,ANTはあくまでも社会学の理論だということですが,ANTをたとえば認知科学の理論として「誤読」すると,何か困ったことや,新たな可能性が出てくるのでしょうか?

  • 分散認知などの認知科学もANTのひとつの根をなしています。

11. 「襞」のイメージがやはり湧きにくい。

  • 「厳然たる事実」は潜在的に「議論を呼ぶ事実」であることのイメージです。具体例が、p.218~219にあります。

12. p.355の5行目,「アクターが報告可能になってきた」とはどういうことか?アクターは主語か?それとも目的語か?

  • p.335ですね。「従来、等閑視されていたモノなどのアクターを社会学者が報告できるようになってきた」という意味です。

13. p.355の8行目,「アクターの代わりになしえないことがひとつあるならば~」は,社会学者にしかなしえないということか?

  • 「社会学者がアクターの代わりにできないことをひとつだけ挙げるならば」の意味です。

14. 科学社会学がもっとも研究しやすいものだ,というのはどういうことか?

  • 何ページの記述でしょうか。いくつか思い当たりますが、たとえば、宗教や言語、法などの発明と普及の経路をたどるよりは、科学技術のほうがたどりやすい。逆にいえば、「社会的なもの」を持ち出してしまう場合、科学社会学の場合は、いかに「社会的なもの」がある発明をもたらし普及させたのか、その導管をきちんとたどれないことが明白になってしまったとも言えます。

15. モノとモノのつながり(interobjectivity)とはどういうことか?

  • 現象学的な間主観性の議論への対抗を意識して、間モノ性(inter-objectivity)の訳語を採用しました。事物の連関が、複数の「視点」をもたらしたりしているということです。

16. やはりモノと人は区別しないのだろうか?

  • 回答済み。

①『社会的なものを組み直す』は「社会学の方法論」を学ぶという点では「なるほど」という感触ですが、やはり従来の社会学の方法論と何が一番異なっているのか、もう少し明確な答えが欲しいです。(これまで読書会で議論してきたのに今更?という感じかもしれませんが…。)

  • p.12~p.13の対比は明確ではないでしょうか。何かの出来事や事件に対して、「時代」や「社会の病理」で説明するのでもなく、当事者の心理で説明するのが「社会的なものの社会学」であり、その出来事や事件を取り巻くアクターに聴き取りを行って、新たなアクターの登場を目指して、可能な限り存在の連関をたどっていこうとするのが「連関の社会学」です。

②先週の第II部の、「第二の手立て」のところで、「対面的な相互作用という場の怪しさ」を5つ取り上げていますが、その中で特に「相互作用は同場的ではない」(p382~)といったときの、「同場的」というのは具体的にどいうことなのか。もう少し知りたいところです。

  • 講義室での相互作用は、講義室という場で閉じていないということです。教師と学生の相互作用によって講義が成り立っているのではなく、教室の設計者、建築者、事務員などが時空を超えて作用しているからです。

③読書会でずっと議論に上がっている、この文献のキー概念でもある、「媒介子」とか「中間項」など、重要概念の明確の意味を伊藤先生にお伺いできれば幸いです。

  • 別途、資料を用意します。

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